第二章 初めての町/Chaser is looming

 少女は、いつも通りに屋敷の一室――少女に与えられた部屋に居た。
 大きなベッドの縁に腰かけて窓の外に広がる曇天を眺めていた少女は、背後で高く軋む音が鳴ると静かに振り返る。
 音は、扉が開いたことによるものだ。扉と壁の隙間から照明の温かい光が部屋に差し込むのだけれど、その光を遮るように一つの影があった。
「……ちちさま」
「ああ、まだ起きていたのか。眠れないのか?」
 声が震えるのを必死に抑えてそっと呼べば、暖色の光を遮る影――金の髪の男は、両目を細めて笑んだ。その表情と声に言いようのない嫌悪感を覚えながらも少女は極めて冷静に、表情を変えることなく答えた。
 視線から逃げたいあまり、つい俯いてしまったけれど。
「ええ、少しだけ」
「そうか、それは大変だな。少しの間にはなるが、安心して眠れるよう、傍に居てあげようか」
 まるで、優しい父親が幼い愛娘を気遣うような台詞と顔だ、と少女は思う。
 彼女は母親のことなんて知らないし、父という存在も彼以外に知らないから、普通の親がどういった態度で子供に接するのかは分からないけれど、それでも、そう思ってしまう。
 けれど、その顔や台詞に安心感を覚えることはない。
 何故ならその表情は取り繕ったもので、笑顔の裏には醜く下卑た感情が渦巻いているのを彼女は知っていたからだ。その悪意に満ちた感情にずっと傷付けられていたのは、他でもない彼女自身なのだから。
「だ、大丈夫……です。一人で、眠れるから」
 膝の上で重ねた両手をきゅっと握って、暫し視線を泳がせる。やがてゆるりと首を横に振って拒否を示す。
 本当なら今すぐにでも逃げ出したい。嫌だ、いい加減にしてくれと叫んで、そこらにある物を手当たり次第に投げつけてしまいたいほどだった。
 けれどそうしない。そうすることはできない。そういった契約を結ばれてしまっているのだ。下手に逆らえば自分は痛みを受け続けるから、相手を怒らせないのが一番賢い選択だと既に学習していた。「ああ、またか」なんて呆れに似た言葉を胸中で呟く程度は許してくれるだろう。
 ただ、今回は少しだけ拒否の意思を示してみた。もしかしたら頷いて帰ってくれるかもしれないという期待を抱いて。淡い期待というのはこういうことを言うのだろう。
「そんな顔をして、大丈夫じゃないだろう。こんなときは相手の厚意を受け取っておくんだ」
 少女の言葉に困ったように眉尻を下げながら、彼は後ろ手に扉を閉めると、少女の腰かけたベッドにゆっくりと歩み寄った。少女は何も返さない。
 少女の元へ辿り着くと、彼は、静かに問いかけた。
「一緒に、寝てほしいんだろう? いつものように、ベッドに横になるんだ」
 ゆっくりと、一言ずつ確かめるようにして男が紡ぐのを聞くたび、鉛のような空気が肺を支配するような感覚がする。何か魔法をかけられたわけでもないのに、彼の声を聞く度に息苦しさを覚えた。
 けれど、それだけでは終わらない。最後に命令されれば、少女は嫌だと思っても従うしかできなかった。痛いのは嫌だった。
 ベッドにのぼって、少女がそっと横になると、男も少女の隣に寝転がる。
 少女が目を伏せ、十数秒。数分にも、数時間にも感じられる時間だった。時計のちくたく音が少女にはとても耳障りなものに聞こえていたけれど我慢していたのに、衣擦れの音と毛布の中に入る冷たい空気、それから更に身を寄せてくる異物に、とうとう堪えきれず薄らと目を開けた。
 そこにはやはり、見慣れた父親が居る。慌てて目を伏せれば、面白がるような笑い声が聞こえた。彼女が身を強張らせるのも気にせず、男はするりと少女に手を伸ばし――ネグリジェを解いた。
 そうしていつも通りに始まるのは、寝かしつけるように優しく背を叩くことでも、そっと髪を撫でることでもなく、少女に求めるには何とも行き過ぎた、何の意味もない営みだ。
 発展途上な双丘を痛いくらいに揉み、既に硬くなったそれで腹を貫き抉り、掻き回される。
 そんな、痛くて苦しくて気持ち悪い行為を意識しないように、きっとこれは悪い夢だと自分に言い聞かせて、ただただ少女は目を強く瞑った。夢ならば早く覚めてくれと願って。



   1

 がたりごとりと軽快な音を響かせて、列車は駆ける。
 軽く揺さぶられる心地に意識が浮上してしまえば、少女は思わず呻きを漏らした。
 長い睫毛を震わせて、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
「ここ、は……」
 瞬きを繰り返すうちに鮮明になる視界には、見慣れない光景が映っていた。記憶を探ってみれば、いつか見た機関車の中の光景に似ている気がして――。
 そこで少女はハッとする。そうだ、確か屋敷を飛び出て、今は魔動機関車に乗っていたはずだ。あのルカー・ニキートヴィチもついて来ていたと思うのだけれど、なんて考えながらふと頬に当たる硬い何かに気付いて、少女はゆっくりとそちらを見た。そして、小さく声を漏らす。
 寝心地の悪い枕だと思っていた。しかしそれは枕などではなく、太い腕だった。見上げた先にある顔は、今しがた思い浮かべたルカー・ニキートヴィチのものだ。
「やっと起きたか。あんなタイミングで寝やがってよぉ。しかも魘(うな)されて呻いて、うるせぇし」
 少女……ロマーシカが起きたことに気付いたのか、ルカーが不機嫌そうな表情と声で彼女を見下ろす。けれど彼女の方は、その表情にすら何故か安堵を覚えていた。屋敷を出てきてすぐに嫌な夢を見てしまったせいだろうか。夢の中の父に向けられたような、下卑た悪意が向かないだけで安心してしまう。決して安心して良い相手ではないはずなのに。
「おはよう、ルカー・ニキート……んん。ごめんなさい、腕を借りてしまって」
「ああ。全くだ」
 少女が欠伸を漏らしてから短く謝る。そんな少女にルカーは機嫌を直すこともなくロマーシカを咎める。それに嫌な表情をするでもなく、少女は窓の外を見た。
 どれくらい眠ってしまったのか、空は濃い群青が広がり、夜が明け始めたことを示していた。夕方でないと彼女が判断した理由は、車内に人が居ないせいだ。
 空の下では雪に囲まれた街道が少し向こうに見えて、それと同じルートを辿るように機関車は駆け続けている。流れていく景色を見ていると、雪が積もっている町の外で、どうして列車を走らせることができるのか……前に調べたことがあったのを思い出す。
 国やそれに属する領主の指示で作られた道は、安全に移動ができるよう、色々な魔法がかけられている。雪を溶かすための微かな熱魔法もその一種だ。機関車や一部の街道は国が管理しているし、それ以外の大きな街道は領主の管轄だ。おかげでよく使われる道は障害となる雪がない。
 そんなことを思い出しているロマーシカには、会話がないために退屈しているルカーなど目に入らない。しかし、やがて車内に響く音に違和感を覚えれば、意識が現実に戻って来た。
 聞こえる音は列車が走れば当然鳴るものだが、その違和感がどういったものか彼女はすぐに気付いた。僅かにズレて、音が二重になっている。まるで、こことは違う場所の音が同時に聞こえているみたいだ。いや、確かにその表現で正しい。
 彼女がそう理解するのとほぼ同時、どこからか車内に声が響く。
 隣に腰かけるルカーが、びくりと肩を震わせるのが視界の隅に映った。
「う、お。何だよ、またか。びっくりさせやがって」
 その台詞から、当然ではあるもののロマーシカが眠っている間にも何度か同じように声が聞こえたらしいことを知って、少女は今どこを走っているのか知るために、その声――車内放送へと耳を傾けた。
 声は男のもので、あと数分で次の駅に着くことを告げていた。告げられる駅の名は、少女には聞き覚えがあるものだった。彼女の父親――アイラト・ボリーソヴィチ・シュリギーナが治める町の一つがそんな名前だ。しかも、彼の領地の中では南端に位置している。
「なあ、さっきから何度か聞こえたあの声は何なんだよ」
 ルカーの声がかけられたせいで、少女の頭の中に広がっていた地図が突然に霧散する。
 少女は彼を一瞥すると、静かに頷いた。彼は百年前の人物なのだから、常識を持ち合わせていないことなど彼女にも理解できていた。
「あの声は車内放送。次はどこに向かうとか、もうすぐ着くとか、そういったことを知らせてくれるの。魔法で保存した声を届けている」
 この魔動機関車そのものが魔力を使って動く魔法具の集合体だ。どんな魔法具が入っているのか詳しく知る者はほとんど居ないけれど、大半の利用者が知るものの一つに、この車内放送用の魔法具が存在する。
 空気の振動、つまり音を保存し、魔力を送られることで、保存した音を増幅して発する魔法具だ。状況に応じてそれらが作動し、このように声が放送されるという。
 ――そんな少女の説明を、質問した本人であるルカーはどうでも良さそうに聞き流し、次の問いをかけたのだけれど。
「それよりも、いつになったら降りるんだ。正直ずぅーっと座ってんのも、退屈で仕方がねぇ」
 問いながら、ぎゅっと眉を寄せて不機嫌を露わにする。夜行性である彼はあんな時間に眠気が来るはずもなく、彼女が眠ってから今に至るまでずっと起きたまま、座りっぱなしだった。いい加減ちょっとくらい動きたいし、列車からも降りてしまいたいという彼の気持ちが伝わってか、少女は「そうね」と短く相槌を打つと、再び首を縦に振った。
「じゃあ、さっき放送された駅に着いたら降りよう。ちょっと早いけど、朝ごはんも食べたい」
 本当なら彼女は父親の領地など出てしまいたかったのだけれど、別の領地まで行くには少し時間がかかってしまう。これ以上彼を焦(じ)らすのも酷だろうと考えた少女が答えると、ルカーはあからさまに安心した顔をする。それほどに、彼にとって暇な時間は苦痛だった。
 再び、今度は間もなく着くことを告げる車内放送が鳴り響いて、それから少しずつ列車が減速していく。やがてすぐそこに駅が見えた頃には、ブレーキによる甲高い音が鳴り響いていた。防音が施されているおかげでそこまで耳障りには感じないけれど、やはり気持ちの良いものではない。
 列車が止まると同時に、少女はそっと座席を飛び下りる。
 そうしてルカーに手招きをして、彼が立ち上がったのを確認すると出口へ歩いて行った。扉が開けば少女が先に降りる。続くルカーが恐る恐るといった体で足を踏み出すのを眺め、彼が二本の足で地面に立てば、少女は頷いて再び歩き出す。
 背後で甲高い汽笛が鳴り、列車が動きだすのを背に感じながら二人は乗り場を出て、改札を目指した。



 料金の支払いを終え、財布である革袋を腰に戻した。
 精算用の魔法具に乗車駅を示す切符を置き、表示される金額を支払うと切符に印が描かれる。その切符を使うことで改札を出られる、という仕組みになっているのだ。
「なあ、ロマーシカ・アイラトヴナ」
「……ねえルカー。言い忘れていたけど、わたし、もう一つお願いがあるの」
 二人が改札を出て数歩、ルカーはふと少女に話しかける。彼がこうやって少女を呼ぶときは決まって何か質問があることを、彼女はここに来るまでに理解していたから、話しやすいようにと壁際に寄った。
 しかし彼女が発した言葉は、続きを促すものではなかったけれど。
 ここに来るまで呼びかければ必ず話を聞いていたロマーシカが珍しく自分の話を出したことに少しだけルカーは驚きながら、逆に面白いとも思って、一瞬の思考の後に少女に話させることにした。
「へえ、言ってみろよ」
 そんな彼の相槌に少女は頷くと、顎に手を添えて考え込むように俯いた。数秒ほど開けて彼女は口を開く。息を吸う音に、どんなお願いが来るのか少しだけ身構えて――けれど、語られる内容にルカーはつい呆れてしまった。
「わたしを呼ぶときも、父称は……つけないでほしいの」
「なんだ、そんなことかよ。でも、どうしてだ?」
 身構えて損をしてしまった、とルカーは思う。
 ロマーシカのお願いは、数時間前に彼が頼んだのと同じものだった。けれど、たったそれだけのことを何故改まってお願いしたのか、彼は理解できないでいた。
 ルカーの口調も丁寧とは言いがたいけれど、どうにも扱いの雑さとかしこまった呼び方が合わないため、という顔には見えなかったからだ。おそらく別の理由があるのだろうと彼は推測して、しかし、その理由というのがやはり浮かばない。
 彼は気の長い方ではないし、頭がよく回るわけでもない。故にさっさと考えることを諦めて問いかけていた。
「嫌なの? 長いから、いちいち呼ぶのも大変だと思うけど」
「そういうわけじゃねぇよ。どうしてあの呼び方を嫌がるか気になっただけだ。ほら、さっさと教えねぇと変えてやらねぇぞ」
 理由を早く話せと急かす彼に、少女は視線を逸らし、短く告げる。ぼそぼそとした小さな声ではあったものの、人間よりも耳の良い彼にはしっかりと聞こえていた。
 険しい目、寄せた眉。嫌悪の浮かんだその表情で少女が告げる言葉。
「ちちさまには、良い思い出がないから……逃げた先でも、名を呼ばれるたびにちちさまを思い出すなんて、嫌」
 その答えに、ほう、とルカーは声を漏らす。
 そして、表情をほとんど動かさない彼女が唯一表情を変えるのは、彼女が逃げ出した家やそれに関わる人間の話のときだと、ここに来て理解した。
 父に良い思い出がないという話、そして住んでいた屋敷が父親のものだという話を合わせて考えると、どうやら彼女は父親と何かがあって、それが嫌で逃げ出したらしい。そこまでを考えて、ルカーは溜息を吐く。
「まぁ、呼び方を変えるのは構わねぇよ。てめぇの言った通り、長ぇから呼ぶのもだりぃしな」
「そう。それならいいの」
 ルカーの答えに満足して頷くロマーシカだったが、対する彼は、先ほどまで露わになっていた彼女の感情が引っ込んでしまったのに少し不満を覚えていた。
「それでよぉ、ここからどこに行くんだ。確か、飯を食うんだったよな」
 凭れかかっていた壁から体を離して少女の前に立てば、彼女は自然とルカーを見上げる。
 ルカーはこの地域のことなど知らないし、知っていたとしてもそれは百年前の景色だ。つまり、彼はどこに行くのか聞いたけれど、求めているのは説明なんかではなく、案内だ。
 飯という言葉を聞いて、そういえば降りる理由にそんなことも言ったか――なんて思い出す。すると、先ほどまで意識もしなかった空腹の存在に気付いてしまった。沢山食べたいわけじゃないけれど、一度眠って目覚めたからか、小腹が空いてしまった。
 仕方なく、ロマーシカは数秒の間を置いてルカーに返す。
「……ちょっとだけ、待っていて」
 そう言って彼女も壁から離れると、ルカーの横を通り過ぎ、歩いて行った。
 夜が明けたからだろう。まばらではあるものの、気付けば人影がいくつか駅内に見えるようになっていた。少女はそのうちの一人を適当に選び、恐る恐る声をかける。優しそうな顔立ちの、耳が可愛らしい鹿系亜人種の女だ。
 そうして二人が暫く会話を交わすのをルカーは眺めていた。
「お待たせ」
「ああ。何を話してたんだ?」
 やがて会話を終え、亜人種の女と別れた少女が戻って来ると、ルカーは問いかけた。
 二人が知り合いという雰囲気ではなかった。そんな彼女らが何を話していたのか、気になりはしても聞き取れないでいた。
「この近くに、おいしいご飯のお店がないか聞いていたの。わたしも、この地域のことは知らないから」
 食事をしたくても、どこにどのような店があるか知らなければ、食べることもできない。だからこの周辺に住んでいるのだろう彼女に尋ねたのだ。そう語られると彼は納得の色を見せた。
「んで、収穫はどうだったよ」
「それが……この時間は、どのお店も準備中らしくて。朝市の屋台に行けば料理も売っているかもしれない、とは言っていたけど」
 次なる問いには、少女は何とも言いづらそうに告げた。
 夜が明けてきたとはいえ、まだまだ暗い時間だ。食べられるとしたら、せいぜい朝市で出された屋台くらい。料理を出している屋台もいくつかはあったはずだと彼女は教えられた。それを伝えて溜息を吐くと、ルカーに背を向けた。
「とりあえず、この近くに市を開いてる広場があるらしいから……行こう」
 店が開いていないなら仕方ない。屋台があるという場所に行ってみるべきだろう。
 言うだけ言って歩き出す彼女を見て、ルカーは仕方ないとばかりに頷いた。置いて行かれると迷うことは目に見えているし、迷ったら最後、二度と会えないと理解していたから、すぐに彼女を追いかけた。
 何より、彼もまた久しぶりの食事が楽しみなのだ。
 駅を出ると、そこには白と赤の町並みが広がっていた。
 空の暗い群青と、鮮やかな紅白のコントラストがよく映える。壁は赤い建材を使っているけれど、雪によってところどころが白く染まっている。
 ロマーシカのいた町でも同じような建築物が並んでいたのだけれど、あのときは暗かったし、逃げることに必死で二人とも意識なんてできなかった。
 逃げ出す前、少女はたまに外へ出ることがあったけれど、町をゆっくりと見ている時間はなかったから、こうやってまともに町を見るのは、おそらく数年ぶりのことになる。
「はぁ……やっぱ寒ぃな、外は」
 男の方は景色に興味を引かれなかったらしく、身を襲う寒さに手を擦り合わせるのみだ。吐く息の白さを眺めながら呟く。
「そうね。町の外に出たらこれ以上に寒いって考えると……嫌になる」
 少女もルカーの言葉に同意を示し、肩を抱きながら再び歩き出した。
 辺りを窺えば、道を避けるようにして雪が積もっているのが目に映る。これも、おそらくはレールの上に雪が積もらないのと同じなのだろう。
 そんなことを考えながら、聞いた通りの道を進み続けること数分。だんだんと行き交う人の数が多くなってきたと感じる頃には、広場はすぐ目の前に迫っていた。
「……賑やかだな」
 円形の広場に入った瞬間に、ルカーが呟く。
 道の途中から既に屋台は並んでいて、そこに並ぶ者も何人かは居たけれど、メインの市場とは人の数が段違いだ。様々な種族が言葉を交わしているおかげで、早い時間だとは思えないほどに賑やかだった。
 ルカーの言葉に顎を引く形で同意を示すと、ロマーシカは広場の中に進みながら、周囲をぐるりと見回した。色鮮やかな果物や野菜、あとはパンと肉、魚が少し。そういった食材を売る屋台が多く見受けられて、料理の屋台は少数だった。しかし確実に存在し、漂ってくる匂いが空腹を増幅させてたまらない。
「ねえ、ルカーは何を……あ、ちょっと」
 何を食べたいか、なんて聞こうとした矢先の出来事に、少女は思わず声をあげる。声をかけた先の彼が、ふらりと勝手に歩き出したからだ。
 慌てて駆け足で追いかける少女の前を、ゆったりと――しかし彼女の急ぎ足よりも明らかに速いペースで進んでいくルカー。彼が立ち止まって、ようやく少女が追いつける。
「どうしたの、急に。できれば勝手に行かないでほしいんだけど……」
 それほどの距離は走っていないから息こそ上がらないけれど、驚くから止めてほしい。そんな咎めるような少女の視線にも、ルカーは悪びれる様子もなく、ふいと顔を逸らしてしまった。
「知らねぇな。美味そうな匂いがしたからこっちに寄ったんだ」
 そう言われてやっと、ルカーのすぐ近くから食欲のそそられる匂いがすることにロマーシカも気付いた。彼を挟んですぐ目の前にある屋台では、ぱちぱちと炎がはじける音と共に、肉が串焼きにされていた。
 かかっているのは塩、胡椒と、おそらく砕いたハーブだ。爽やかなハーブの香りに焼けた肉の匂いが合わさっており、とうとう腹の虫が鳴きはじめる。
 屋台の主であろう男は、ルカーを見て驚きとも怯えとも取れる顔で放心していたけれど。
「何本、食べたいの?」
「食えるんだったら、いくらでも食えるが……」
 ロマーシカの問いに、当然のようにルカーが返す。その答えに、彼女は呆れたような溜息を零した。いくらでも食べられると言われても、所持金には限りがある。なるべくお金には余裕を持たせたいが、かといって少ないと彼はきっと不満に思うだろう。
 少女は暫し悩んだ後に意を決して、ルカーよりも前に出る。未だ彼を見つめたまま呆けている男に声をかけた。
「これ一本の価格って、どれくらいなの? あと、放置したままだけど、焦げ付かない?」
「……っ! あ、ああ。悪いね。一本が四ルドリーだよ、お嬢ちゃん」
 幼さの残る声に話しかけられて、男はやっと正気付く。目を白黒させ、すぐに少女を見下ろして申し訳なさそうに笑う。そうしながら火にかけた肉を裏返していった。
 一方で少女は、伝えられた金額を元に、何本まで買うのか指折り計算し始める。
 できるならば一回の食事、しかも屋台で買う程度のものに、あまりお金は使いたくない。加えて言うなら、串焼き肉は一本でもそれなりの大きさがあるし、自身は二本も食べれば満足するだろうとロマーシカは見当を付けていた。
「えっと……ルカーが三本、わたしが二本の、合計五本で良い?」
「いや何言ってんだ。十本は食うぞ」
 十分だろうとは思いつつルカーに確認を取って、返る言葉に少女は間抜けた声を漏らす。それから焼かれる串を一瞥して、その大きさを見ると彼に視線を戻した。
「あんなに大きいのに、食べられるの?」
「当たり前だろうが。てめぇこそ、二本で足りるのかよ」
 彼が当然のように、まるで少女の方がおかしいとでも言うような態度で話せば、少女は呆れたような目でルカーを見た。確かに彼は体も大きいし、食べる量が多いのも理解できる。しかし、それにしたって十本は多すぎるし、何より遠慮というものが無いのか、だとか言いたいことは色々と浮かぶ。
 それら全てを視線に込めて見つめる少女を、ルカーも眉を寄せて見つめ返した。宵闇の黒とシトリンのオレンジが絡み合い、最終的に折れたのは少女だった。
 首肯し分かったと告げれば、満足そうに彼は鼻を鳴らして笑った。
「最初からそう言えよ。んじゃ、てめぇが買ってくるまで俺はあっちで待ってるぞ。ここに居てもつまんねぇからな」
 それから付け加えるようにそう言い残すと、少女の返事も待たずに彼は歩いて行く。その背を少しの間だけ見送って、少女は屋台に向き直った。
「それじゃあ……お兄さん、十二本ちょうだい」
「沢山買ってくれるんだな。それだったら、もう一本買ってくれたら五十に負けてやるぞ」
 渋々といった様子で腰につけた革袋を開きながら注文をするロマーシカ。それを受けた男は、思わぬ大きめの収入のおかげで快活に笑った。そこから更に一本追加で買わせようとするのを見てしまうと、先まで放心していた人物とは、ロマーシカは到底思えなかった。
 だからそれよりも、男の提案について彼女は思考する。その時間は短く、あっさりと結論が出たけれど。
「分かった。それなら十三本で」
 十本は食べる、ということはもう一本くらい追加しても彼ならペロリと食べてしまうだろう。少しでも安く食べられる量が増えるならそれも良いか、と頷いた。ここで断ったら、ルカーも不満に思うに違いないという思考も、頷く理由の一つだったけれど。
 彼女の言葉に満足げに返事をして、男は先に焼いていた数本を端にやり、新たな串を火にかける。先ほどの分だけでは足りないようだ。 時折裏返したり、そうやって肉を焼いていく男を眺めていたが、待っている間やることが無さすぎて、ふと少女は一つの疑問を男にぶつけた。
「それにしても、どうして彼を見て驚いていたの?」
 彼というのはルカーのことだ。
 少女の問いを受けて、男は火の通っていく肉に視線を落としたまま小さく笑いを零した。
「ああ、それか。嬢ちゃんは多分知らないだろうが、百年ほど前に『ある事件』を起こした奴が居てなぁ。それに兄ちゃんがそっくりだったわけだ。はは、居るわけがねぇのにな」
 そう語る男の目は、ここではないどこか遠くを眺めていた。
 居るはずがないという言葉に、すぐそこに居るルカーが、正しく男の指す人物であることを知る少女は俯きかけて、ぐっと視線を持ち上げる。
「そんな百年も前のことを、お兄さんはどうして知っているの?」
「はは、どうしてってそりゃ、この耳の通りさ。そのおかげであの恐怖も、つい最近のことのように覚えてるよ」
 どうしてルカーのことを知っているのか。
 じっと見つめながらの問いに返される言葉を受けて、少女は困ったように笑う男の耳に視線を運ぶ。そして納得した。そこにある耳は、人間のそれよりも長く、先が尖っている。長命種の一つであるエルフやドワーフの特徴と同じものだ。しかしドワーフは子供のように小さいことを考えると、導き出される答えはエルフだ。
 そうであれば、百年前にルカーが起こした事件を、それどころかルカーの特徴すらも覚えているのは、別に不思議なことではない。
 人里で暮らすエルフも多いし、他の長命種だって人と共存する者は多い。ならばこうやってルカーに反応する者が居たって、おかしくないのだ。このエルフのように似ているだけと納得してくれず、怯える人だって出るかもしれない。
 そんなことを思考し俯く少女の頭へ男の声が降りかかる。
「ほら、焼けたぞ。しっかり十三本だ。それじゃあ五十ルドリーな」
 顔を上げれば、焼き上がった肉串を紙袋に入れて、男は手を差し出していた。
 慌てて少女は、財布から一枚の大型銅貨……つまり金額分のお金を取り出して、男の手にそっと置く。そうすると手は引っ込められて、男は硬貨を確認した。ニッと歯を見せて笑うと、礼の言葉と共に袋を少女に渡す。
「ありがとさん」
「こちらこそ。それじゃあ」
 短い応酬の後、紙袋を抱えてロマーシカはルカーを振り返る。少しだけ離れた所に立ち、ひどく退屈そうな様子でポケットに手を突っ込んで、彼女を睨み付けたままの彼。待ちくたびれたとでも言いたげな顔を見ると、少女は早歩きで彼に近付いた。
「お待たせ」
「ああ、全くだ。ほら、さっさと寄越せ」
 けれど、差し出した手を引き寄せるジェスチャーと共に渡せと言うルカーに、ロマーシカは少しだけ呆れてしまう。
 彼女は、決して彼を養うために連れ出したわけではない。彼が働いた分――お願いを聞いて逃げる手伝いをした分だというにはあまりに多いこの食事を提供するのも、あくまで厚意によるものだ。
 けれど、それを伝えることすら面倒だと彼女は思ってしまった。
 相手の要求を拒否することを伝えるのが彼女は苦手だった。
 怒られることを恐れているわけではない。けれど、今まで相手の意思から逸れた要求をしても全て拒否されてしまったから、相手の要求に否を示すことを諦めてしまっていたのだ。相手が違えば変わってくるとしても、いちいち確かめるのが面倒だ。
「……どうぞ」
 だからルカーから視線を外して、少女は袋を差し出す。
 しかし、待てども彼に袋を取られる気配はない。不思議に思って彼女がルカーを再び見遣ると、彼は何とも言い表しがたい顔でロマーシカを見下ろしていた。
「食べないの?」
「てめぇが不満げな顔してるからだろ、ロマーシカ」
 買ったのは彼女であるし、渡すことを良しとして差し出したはずなのに、まるで本意ではないような顔をするのだから意味が分からない。つまりそういうことをルカーは言っていた。
 彼の言葉を聞いて、どきりとロマーシカの心臓が跳ねる。そもそも彼はそんなことを気にするような人物だったか、なんて思っていたから。
「……別に、不満なんて」
「ほぉ……? わざわざ俺を連れ出したような奴の台詞には思えねぇな」
 誤魔化すような言葉を紡ぐ少女を見下ろすルカーの瞳が、すっと細められる。
 というのも、嫌なことから逃げ出すためなら、自分を殺すかもしれないルカーという男を連れ出すような、無謀なことも平気でする行動力の塊――それがこのロマーシカという少女だとルカーは認識していたからだ。
 そんな存在が、不満がありながら隠すという態度を見せているのが、何故だという興味こそあったけれど、それ以上に不快だった。
「ま、いいわ。これからは嫌なことがあるんだったらハッキリ言えよ。毎回そんな嫌そうな顔されたらつまんねぇし」
「善処は……あ」
 しかしそんなことで話しているのも面倒だと感じ、何より肉が冷めてしまったら勿体ないと思った彼は、すぐに表情を切り替えると、少女が返事をする途中でその手から紙袋を奪い取ってしまった。
 小さく声をあげる彼女に目もくれず、彼が袋を開けたその瞬間、香ばしい匂いが温かい空気と同時にふわりと飛び出てきて、久しぶりの食べ物に腹の虫がぐるりと唸る。すかさず中に手を突っ込んで串の一本を取り出せば、齧(かじ)り付いた。一口飲み込んだあとは、無我夢中で貪り始める。あっという間に肉が消えると、彼は溜息を吐き、それから二本目に手を伸ばす。
 その様子を眺めるロマーシカの胸中は、礼もなく食事を奪われてしまったことではなく、自身の表情や感情に気付いた彼の『嫌なことは言え』という台詞に対する疑問で埋め尽くされていた。
 ルカーは二本目もすぐに平らげてしまい、三本目を手に取ろうとする。けれど、じっと見つめられるのに気付き少女に視線を向けた。
「……何だ、食いてぇのか。確かにこれは美味ぇけど」
「さっき、わたしは二本食べるって言ったと思う。ご飯を食べるために降りたいって言ったのもわたし。お金を出して買ったのも……わたし」
 彼のものを食べたいから眺めていたわけではない。ただ、自身も食べたいと思って、自分でお金を出したのだから、自身の分として買った分くらいは欲しい。
 なのに、今の調子で彼に食べられたら、きっと後先考えずに自分の食べる分すら取られてしまいそうだ。そんな懸念から、遠回しに自分も食事をしたいことを、食事をする権利があることを、ロマーシカは主張した。
 先ほど『嫌なことがあるなら伝えろ』と言われたばかりだから、というのも理由の一つだ。
 彼女の言葉に、失念していたかのようにルカーは「ああ」と漏らして、片手に持った紙袋へ視線を落とす。ロマーシカから奪ったその袋は、まだ温かい。
「……そういえばそうだったな。悪(わり)ぃ」
 短く謝りながらバツの悪そうな表情で紙袋を差し出すルカーに、少女は目を瞬いた。まさか謝られるとは思っていなかったから。
 彼と出会ったばかりのときも思ったけれど、話に聞いていたような人物とはまるで違う、そう思わざるを得ないくらいに、意外も意外だった。
「えっと……どうして、謝るの」
「そりゃあ俺が悪いと思ったからだろ。当たり前のことを聞くんじゃねえよ」
 思わずロマーシカが尋ねると、怪訝な面持ちでルカーは当然のように語る。その答えこそが逆に彼女を混乱させたけれど、ルカーからすれば冗談でも何でもなく本気であった。
「とにかく、食うならさっさと食え。冷めたら不味いだろうが」
「……そう、ね」
 ルカーの言葉を聞いて、困惑が解決せぬままに少女は頷く。
 悪いと思ったことに謝るような人物なら――どうして、人々を殺し回ったのか。まさか、それは彼の中では悪いことではないのか。その疑問を喉から出しかけて、奥へと仕舞い込んだ。
 そうして差し出されたままの袋から串を一本取り出すと、彼女はそれをじっと眺めた。
 稀(まれ)に外へ連れ出されることはあったから、こういったものを見ることは何度かあったけれど、実際に食べるのは初めてだった。
 やがてごくりと唾(つば)を飲み、先ほどのルカーと同じように齧り付いた。
 長めに焼くことで中までしっかり火の通った肉は赤身が多く、脂は少なめだ。歯ごたえのあるそれを咀嚼するたび肉の旨みと香ばしい香りが口腔いっぱいに広がる。なるほど、これは彼が夢中で食べてしまうのも仕方ない、と納得できるほどには、少女も美味しいと感じていた。
 けれど少女が小さな口で食べ進める間にも、ルカーは既に数本を平らげている。それを視界に映すと彼女は溜息を吐いた。
「……もっと味わって食べないの?」
「てめぇの食べる速度が遅いだけだろ。他人の食べ方にケチつけんじゃねぇよ」
 物言いたげな目で見上げるロマーシカを、ルカーは軽く睨み付ける。その視線を受けても尚、彼女の人形のような顔はぴくりとも表情を変えやしない。短く「そう」とだけ相槌を打たれるのが、たまらなく退屈だとルカーは感じてしまった。
 別に面白いことがあったわけではないけれど、彼女のような年頃の娘は、もう少し表情をコロコロと変えるものだったと思っていたし、子供でなくても多少は表情の変化があったはずだから、彼女だって何かしらの反応をしてくれたっていいはずなのに、と。
 串を取り出す手も、肉を喰らう口も止めることはなく思考を続ける彼だったが、ふと紙袋の中に手を伸ばすと、肉のついた串が残り一本だけになっていることに気付いた。
 少女を見れば、ようやく一本を平らげたところだった。しかし彼女は溜息を吐くだけで、袋に手を伸ばす様子はない。
「食わねぇのか?」
「美味しいとは思ったけど、想像していたよりも量があったから」
 そっと胃の辺りを擦ることでお腹がいっぱいだと示す少女に、彼は疑うような目を向けた。
 彼からしてみれば十本でもぺろりと平らげられる量だったから二本でも少ないと思っていたのに、まさかそれより少ない量で満足されるとは考えられなかったからだ。
「勿体ないから、ルカーが食べていい」
「……ふーん。それなら、食っちまうぞ」
 けれど、自分が買ったのだから全部は食べないでと主張した彼女が、何か会話したわけでもないのに考えを変えるとしたら、そのきっかけは満腹くらいしか思いつかないのも事実だ。
 食べて良いと言われれば、腹が膨れたわけでもないルカーは素直に頷いて食べることしかできなかった。



 食事も終えた二人は、あれから町を歩いていた。
 ロマーシカは、本当ならすぐにでも父……アイラトの領地を抜けてしまいたかったのだけれど、またすぐに列車に乗るのは退屈だとルカーが言い出したこと、彼女自身も折角なら町を見て回りたいと思ったことから、こうして歩くことになっていた。
 石畳の上を並んで歩く彼女らに、時折、不躾な視線が投げられる。正確には二人ではなくて、ルカーに向けられたものだろう。
「あぁ、もう。さっきから何なんだよ、あいつら。ジロジロ見やがって」
 露骨に不機嫌を露わにして、彼が悪態を吐き周囲を睨み付ける。彼の鋭い目つきに、彼を見ていた人物らは揃って怯えを露わにして顔を逸らす。その様子を見かねた少女は溜息を吐いて、静かに告げた。
「ルカーは有名だから、仕方ない。恨むなら過去の自分を恨んで」
「……ああ、そういうことか。けど、そんなすっげぇ昔のことを、よく覚えてるよな」
 過去の自分、という言葉で理解したのか、ルカーもまた深く息を漏らし頷いた。しかしその次には『とても昔』のことだと言うのを、ロマーシカは少しだけ不思議に思ってしまった。
「エルフやドワーフ、巨人族とか、他にも長命種は沢山居るから、覚えていても普通だと思うけど。そう言うルカーだって、千年は生きる人狼族でしょう。百年前なんて、昔ってほどでもないんじゃ……」
 語られる内容を聞いて、ルカーは「は?」なんて素っ頓狂な声をあげた。驚いたように目を真ん丸く見開いて、彼は少女を見下ろし、問いかける。
「百年……? あれからもう、百年が経つのか」
「そうだけど。言っていなかった?」
 肯定された途端、彼はぎゅっと眉間に皺を刻み込んで、歩いている最中だというのに俯いてしまった。前を見ずに歩く彼だったが、その容姿を見てぶつかろうとするような者は存在せず、人々は二人を避けていく。
 一方で少女は、ルカーが突然俯いたことが気になって、彼の横顔を覗き込むように見上げた。
 何やらぶつぶつと呟くように口が小さく動くのが見えて、少女はつい問いかける。
「ねえ、ルカー。何か問題でもあったの」
「ああ、大問題だよ。随分と長ぇ時間、あの場に居たとは思ったけどよぉ……退屈過ぎてそう感じるのかと考えてたら……まさか、な」
 険しい顔をそのままに首を縦に振り、言葉を紡ぐと、やがてルカーはぐっと顔を上げた。その視線の先にあるのは町並みなどではなく、もっと……どこか遠くの場所だった。
「まさか……何?」
 ルカーの視線を追いかけるように彼女も遠くを一瞥して、しかし特に変わったものが視界に入らないことを確認すると、町の方に視線を戻しながら問いを重ねた。
 彼が紡いだ「まさか」という言葉の続きは一体何なのか。
 問いが耳に届くと、彼はゆっくりと一度、目を伏せた。暗闇のような黒い瞳が隠れたところで、ルカーは深く溜息を吐く。
「うざってぇ拘束のおかげで動けずにいたら、生まれてから閉じ込められるまでの期間の方が、閉じ込められてからの期間よりも短い……とかいうことになってるわけだ」
 溜息と共に、絞り出すようにして吐き出した。苛立ったような、けれど疲れが覗く声音で語られた彼の言葉を聞いて、少女は納得する。
 寿命の一割に過ぎない時間であったとしても、年齢の半分以上を占めているならば十分に長い期間だと感じられるだろう。
 けれど、そこでふと彼女は疑問を抱く。
「そういえばルカーって……閉じ込められる前は、何歳だったの?」
 今の話を聞いた限りでは、地下に投獄される前の時点では百を越えていないことになる。
 人狼族としては若い方なのだろうと思っていたけれど、詳しい年齢までは、ロマーシカは知らなかった。
 問いを受け、ルカーは瞼をゆっくりと持ち上げて、暗闇のような黒の瞳で再び少女を見る。
「なんでそんなこと聞くのか知らねぇけど……んなもん、数えるのも面倒だったから、覚えてねぇよ。正直そんなの、どうでもいいし」
 彼からしてみれば、生まれた日を祝う文化などどうでもよかった。
 長命種であるが故に何年目だと数えるのも馬鹿らしく感じていたし、産み、育ててくれた親はとうの昔に若くして亡くなった。つまり、年齢を数える意味が全くないのだ。
 どこか気怠げにそう言うと、少女が視線を向けてくるよりも先に目を逸らした。
 全てを見透かすような、それでいてこちらには何の感情も感じさせない彼女の瞳と、視線がぶつかるより前に。
「でも、大体……そうだな、五十……いや、六十年は生きてたんじゃねぇの」
 ポケットに突っ込んでいた手を出すと頭の後ろで組む。そうして呟くような声量で適当に答えた。数えていたわけではないから覚えていないことに変わりはないのだけれど。
「それじゃあ、今は百六十と少しってことになるのね」
「おそらくはな」
 ルカーが頷けば、少女は「そう」なんて相槌を打った後に顔を俯かせ、何やら呟き出す。
 その姿を彼が胡乱な目で見ること少し。痺れを切らした彼が「何をしているのだ」と問うよりも先に、少女は顔を上げて彼を見た。
「……つまりルカーは、人間の年齢に換算すれば、わたしと同年代」
「はぁ? 何言ってんだよ」
 やや唐突に告げられた彼女の台詞を聞いて、ルカーは困惑の表情を浮かべる。耳で彼女の声を拾ってから脳が言葉として理解するまでに、いつも以上のタイムラグが発生していた。
 数秒の後、やがてルカーは、わざとらしい溜息を吐いて静かに告げた。
「どうあがいても、俺とお前が同年代のはずがねぇだろ」
「わたしは十歳で、ルカーは百六十くらい。人間の寿命は約七十五年だったはずだから、人狼族が千二百年を生きるとしたら……ほら、同年代になるでしょう?」
 それには首を横に振って、ロマーシカは淡々とした口調で反論した。どんな計算をしたか語りもせずに当然のように言ってのけると、確認するように問う。
 少女の言葉を聞けば、彼は「ほう」と小さく漏らした。視線を持ち上げ、考え込むこと暫し。やがて再び少女を見下ろす。その眉は、不機嫌のために寄せられていた。
「……数字だけ見ればそうかもしれねぇな。けど、違う生き物なんだから成長の仕方も違ぇし、そんな簡単な式で成り立つわけがねぇだろ」
「確かに、それもそうね」 
 珍しく真面目に考え込んで告げた彼に対し、少女は特に考え込むことなく、あっさりと相手の言い分を認めた。ちらりと一瞥するだけで、歩みを止めることも表情を変えることもしない。
 もう少し、何かしらの反応があることを無意識に期待していた彼はついつい拍子抜けしてしまって、ただ呆けた表情で「あぁ」と短く漏らす以外、何も言葉を紡ぐことができなかった。
 そんな彼の間抜けた顔に視線を向けることなく少女は足を動かしていたが、ふと何かを思い付いたように顔を持ち上げ、「あぁ、そうそう」なんて声を漏らした。
「それにしても、ルカーは随分と計算が速い。どう計算したかも言ってないのに……」
 彼は短気であまり物事について考えない性質だと思っていたから、さらりと計算してしまう辺りに驚いていたのだけれど、その言葉については言いかけて嚥下(えんげ)し、問う。
「てめぇよりは長生きしてんだから当然だろうが」
「……そうね」
 そんな少女の問いに、彼は苛立ちと呆れがない交ぜになったような声で答える。出された答えは、少女にとって言われてみれば当然だと頷けるようなものだったから、少女は短い相槌と共に顎を引き寄せて肯定を示した。
 そうして疑問が解決すると、ロマーシカは黙り込む。それに合わせて、何も言うことがなくなったルカーも口を閉じた。
 やがて彼が何となく目を向けたのは、先ほどまでは全く興味を示さなかった町の景色だ。
 会話がなくなったおかげで訪れる退屈さを少しでも紛らわせるために見てみれば、いつの間にか空は暗い群青から明るい青へと表情を変えている。その下では人間を始めとした様々な種族が働いていて、とても活気に満ちた光景だった。
 人間以外の種族だと、獣が二足歩行をしているような姿の『獣人種』系や、人間に近い見た目をしているものの耳や手足などの一部だけが獣のようになった『亜人種』の類が特に多く見られる。先ほどの屋台の男のようなエルフの存在も窺えたし、一見しただけでは分からないが、ルカーのように人間と同じような姿をした人外だって沢山居るはずだ。
 どこからか響く金属を打つ音はおそらく鍛冶屋から漏れるもので、きっとそこにはドワーフが居る。
 そんな町を眺めながら、ルカーはふと思う。先ほどからずっと歩いているけれど、一体彼女はどこに向かっているのか、と。
「……そういや、今はどこに向かってるんだ?」
「特にどこを目指してるわけでもなくて、ただ駅からなるべく離れないように歩いているつもり。もしかして、行きたいところでもあった?」
 目指している場所は無い、なんて答えると、逆に少女が問う。ルカーだって何か行きたい場所があるわけでもなく、寧ろどういった場所があるかも知らないから「いや」とだけ答えた。
「そう。それなら……酒場に行くのも良いかもしれない」
「はぁ? 酒場……?」
 やや唐突に出た『酒場』という単語に、ルカーは意表を突かれたように目を丸くした。その反応に、少女は不思議そうに首を傾ける。
「何、ルカーは酒場も知らないの。魔動列車を知らないのはまだしも、酒場くらいはルカーの時代にもあったでしょう」
 確かめるように復唱されたのは知らないからだ、とロマーシカは判断して問う。魔動列車が普及し始めたのはルカーが閉じ込められた後の話だから知らなくても当然だが、と。
 それにルカーは、すぐに眉を寄せて否定の意を示した。
「いやいや、それくらい知ってるっての」
 一度きりではあるものの、沢山の者が集まるそこがどんな場所か気になって行ったこともあった。だから決して知らないわけではない。そう、彼が気になったのはそんなことではなくて、彼女が何故『酒場』なんかに行こうと言い出したのか、ということだった。
「俺が言いてぇのは、てめぇみたいなガキが、酒なんか飲むのかってところだ」
「飲むわけがないし、酒場自体も初めて。わたしの年齢はさっきも言った通りで、お酒は十五歳からしか飲めないし」
 そんな決まりも知らないのか、と言わんばかりの呆れた表情を浮かべる少女に、ルカーは不快を覚えた。酒場に行くと言い出したのは彼女で、酒場とは酒を飲む場所だからだ。
「んじゃあ、なんでそんな所に行くんだよ」
「あそこは色んな人達が集まっているでしょう? ちょっと知りたいことがあって……情報を集めるなら、人が沢山居る場所の方が良いと思って」
 途端に苛立ったような表情を見せながら彼が問えば少女は俯いた。一度息を吐き、答える。
 知りたいことが何なのかも、何故突然それを言い出したのか、突然ではなく前から考えていたのか、どれもルカーには理解できない。けれど一応は納得できるだけの理由で、彼は「へえ」なんて漏らしながらも頷いた。
「どうせ、どこに行きてぇわけでもねぇんだ。仕方ねぇから付き合ってやるよ」
「そう。じゃあ、まずは酒場がどこにあるか聞かないと」



「……結構近くにあったんだな」
「駅からなるべく離れないようにしていたから。人の行き来が多い場所の近くにあるのは、当然のことだと思う」
 二人の目の前には、木造の建物があった。
 周囲に並ぶものよりも大きく作られたその建物からは、昼間だというのに賑やかな声が漏れ出ている。
 駅からほど近い場所にあるそれこそが、二人の一時的な目的地、この町の酒場だ。
 案内してくれたのは偶然すれ違ったのが目に入った蜥蜴系の獣人で、酒場に辿り着くや否やそそくさと逃げるように去って行った。というのも、その獣人に声をかけたのがロマーシカではなく、ルカーだったからだ。
 威嚇するような低い声で、脅迫じみた要求の仕方をされれば、怯えるのも当然だ。特に獣人達は本能で強者を見分けられる者が多いのだから。
 それはさておき、少女は一歩進み出て、扉についた取っ手に指をかけた。そのままぐっと引けば、屋内の暖かな空気が二人を出迎える。
 思っていた以上に体が冷えていたことに気付きながら、少女は心地よさに思わず息を吐いた。そうして一度ルカーを振り向くと告げる。
「行こう、ルカー」
「分かってるっての」
 少女が呼べば彼は頷き、二人揃って中へと入っていく。
 漏れ出た声から予想できた通り、酒場の中は沢山の人々で賑わっていた。
 仲良く談笑している所もあれば、怪しげな雰囲気で会話する所もある。次から次へと回収が追いつかないペースでジョッキを空にしていく二人組は、大酒飲みで名高い小人のドワーフだ。行儀が悪く机上にどっかりと腰かけたその二人は酒飲み対決でもやっているのか、周囲には人だかりができていて、誰かが時折もっともっとと野次を飛ばす。
 そしてもう一つ目を引いたのは、種族を問わず色んな者が、壁際に集まっている光景だった。何があるのかロマーシカ達には分からなかったけれど、必死になって群がるその姿は印象的であった。
 そうやってぐるりと中を見渡して次に目を向けたのは、向かって右奥に設けられたカウンターテーブルだ。そこを取り囲むようにして客が座っており、スタッフが呼ばれては注文を聞いていく。そうして大急ぎで、けれど慣れた所作で品物を提供していく。
 そこから視線を外せば、偶然にも四人掛けのテーブルが一つ空いていて、少女はそれを指差すと再び彼を呼ぶ。
「ルカー、あっちの席が空いてる」
 言うだけ言ってすたすたと歩き出す少女に一歩遅れて、呼ばれた彼もその後ろに続いた。椅子を引き、互いに向かい合うようにして腰を下ろす。椅子が高いせいで、少女の方は腰を下ろすと言うよりも、よじ登るという表現が正しい座り方をしていたが。
「んで……どうするんだよ。何を知りてぇのかは知らねぇが、聞いて回ったりしねぇのか」
 テーブルの下で、地に付かない足をぷらぷらと揺らす。そうしながら忙しなく周囲を見回す少女を暫し眺め、やがてルカーはゆっくりと口を開いた。そうして問うのは、酒を飲むためではなく情報収集をする目的で来たはずなのに、座ってしまって良いのか、というもの。
「どうやって聞くべきか、誰に話しかけるか……ちょっとだけ悩んでる」
「ああ、そんなことかよ。別に誰に聞いたって良いだろ」
 少女が彼に視線を向けることなく応えると、自身の後頭部へ手を運びながら彼は呆れたように返す。つまらないことで悩んでいる、なんて思いながら、グレーの頭髪をくしゃりと掴んだ。手を滑り下ろすようにして髪を一度梳くと、彼もまた酒場の中を見る。
「それもそう、ね」
 自身の横顔に向けられていた視線が外れたのを感じると、少女は短く返しながら彼に視線を向けた。テーブルに頬杖をつく彼の横顔は退屈そうな表情を浮かべていて、だらしなく伸びた前髪の間から、鋭い黒目が覗いている。
「ああ。だからさっさと行けよ」
「……そうね。じゃあ、少しだけ待っていて」
 頷いておきながら、なかなか動こうとしない彼女を追い払うように手を振って、ルカーは行くように促す。数拍の間を置いて、少女は再び首肯すると、そっと椅子を飛び降りた。地に足をつけ、立つ。
 それから歩き出そうとして――ふと、酒場の中の明るさが変わった気がして、少女は何気なく入り口へと目を向けた。
 その扉は、大きく開かれていた。
 開いた人物は逆光に隠れてよく見えない。
 けれど、その影が子供のように小さかったのだけは理解できた。
「やっと――……」

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