第三章 少女との邂逅/Underneath the smile
目が慣れてくるにつれて、その影に隠れた正体がはっきりと見えるようになっていく。
羽織っているのは、フードのついた大きな緑のコート。おそらく大人向けに作られているのだろう、小さなその人物には丈が合っておらず、少しずり落ちそうだ。
髪は金だが、ロマーシカの淡いそれとは違って濃い金色だ。短く切り揃えたその頭髪が、光を受けて眩しく輝く。
今はどこか疲れた微笑みを浮かべているものの、普段は溌溂(はつらつ)とした表情をしていることが容易に想像できる顔立ち。それが髪型も相まって、どこか少年のようにも見えさせる。
そして、目尻の吊(つ)った鮮やかなスミレ色の瞳が、遠くからでもよく見えた。
――こんな所に子供が。
自分のことを棚に上げて、ロマーシカは思う。
そんな彼女を見たルカーが怪訝に眉を寄せながら同じ方向を見て、呆れたように息を吐く。
「俺の知らねぇ間に、酒場は託児所になったのか」
「違うと思うけど」
皮肉るようなルカーの言葉を否定しながら、少女は扉の前に佇む子供から視線を外さない。ルカーはすぐに興味を失って顔を逸らしたけれど。
子供は、人間であればおそらくロマーシカと同じくらいの年齢か、または少し上に見えた。もしかしたらもっと年上なのかもしれないが、幼い顔立ちと表情がそう見せていた。
未だ佇んだままの子供が次にどう動くのか気になってロマーシカが眺めていれば、子供はやがて何かを探すように、首を右に左に振り中を見回し始める。
暫しして、動きが止まる。その視線は、どういうわけかロマーシカの方に向いていた。次の瞬間、子供はひどく驚いたように目を見開き固まった。
その表情を見て、自分が何かしただろうかという疑問にロマーシカは首を僅かばかり横へ傾ける。途端、硬直していた子供はハッとして、犬が水を振り払うようにぶるぶると頭を振った。両手で頬を叩き、頷いたかと思えば、そこでようやく酒場の中に足を踏み入れる。
身の丈に合わないコートの裾を揺らしながら、子供は屋内を一直線に進む。その後ろでは軋む音を立てて扉が閉まっていった。
「ねえ、こんにちは!」
まるで鈴を転がしたような、明るくて芯のある高音だった。少女らしい可愛い声だが、ハキハキとした話し方のおかげで少年のような風貌によく合っている。
けれど、まるで恐れ知らずの子犬のような勢いで紡がれた挨拶に、ロマーシカは少しばかり戸惑いを覚えてしまった。
何故なら、彼女はなかなか見知らぬ人に声をかけるなんてできないからだ。フレンドリーに接するなんてもってのほかだ。現にさっきだって、知りたいことはあっても話しかけることなんてできなかった。駅で女性に話しかけられたのが嘘みたいに、体が動かないでいた。
だというのに、目の前の子供は当然のように、眩しい笑顔を湛えて話しかけてみせるのだから、あまりの違いに困惑せざるを得なかった。
「……えっと、こんにちは」
それに――ロマーシカは、同じような年頃の子供と接する機会なんて、ここ数年はなかったから。どう話すのが自然なのか、分かるはずもなかったのだ。
顎を引き寄せかけてぐっと堪え、ぽつりと漏らすようにして挨拶を返せば、相手は眉を垂らして困ったように笑う。
「あ、もしかして驚かせちゃったかな。ごめんね」
「え、いや、そんなことは……」
突然話しかけてしまったから驚かせてしまっただろうか。
そう言って、頬を指先で引っ掻き謝る彼女に、ロマーシカまでなんだか申し訳ない気分になってしまって、咄嗟に否定の言葉を紡いだ。
「あは、良いよ良いよ。突然声をかけちゃったのは本当だし。アタシみたいな子供が他にも居るのにびっくりしちゃったから、つい……さ」
しかし相手の方は、気を遣って言ったのだとしっかり感じ取ってしまったようで、片手を顔の前でひらひらと振って良いのだと告げる。その後に語られるのは声をかけてきた理由で、ロマーシカはそれに納得すると同時に一つの疑問が浮上するのを感じた。
「わたしも驚いたから、気持ちは分かる。けど、それにしても……」
「なぁ、てめぇら。いつまで突っ立ってるつもりだよ。座らねぇのか」
けれど問おうとした瞬間に、その声を遮るように男の声が飛んできた。ロマーシカが振り向けば、不機嫌そうに眉根を寄せたルカーがじっと見てきているのが目に入った。指先でテーブルをトントンと叩いている様が、彼の苛立ちを体現しているようだ。
「確かに、せっかく椅子が空いてるんだから座って話すべきか」
本当は、自分を置いて二人だけで会話されるのが気に食わなかったために出た言葉だったから、会話を遮ることができるなら何だって良かった。そんなルカーの意図など、しかし少女は全く知る由もなく、言葉の通りに受け取っては頷いた。
椅子を引いて先ほどと同じように座り、相手には隣を勧める。
「えっと……二人は知り合い、なの?」
少女と青年。その二人の様子を眺めて不思議そうに問う子供へ、ロマーシカはゆっくりと瞬きをした後、静かに首を縦に振ってみせた。
「そう。一緒に旅をしているの。と言っても、まだ始めたばかりだし、ここにはたまたま立ち寄ってみただけ。それより……」
途中でロマーシカは一度言葉を区切って、向かい側に座るルカーをちらりと盗み見る。そうして再び視線を戻せば、続きが気になるのかじっと見つめてくるスミレ色の瞳と自然に視線がぶつかった。
「ところで、あなた……は、どうしてこんなところに?」
そんな子供に、名前を知らないため『あなた』なんて呼び方をして少女は続きを――相手に対する問いをかけた。
問いかけた彼女も他人のことは言えないけれど、ここは少なくとも幼い子供、それも彼女自身や相手のような『少女』が来るべき場所ではないはずだ。そんな疑問に、隣に座る子供はどこか哀愁を帯びた微笑みを浮かべて「ああ、それね」と短く漏らす。しかしその顔から哀愁が見えたのは一瞬のことで、すぐに快活な表情になったのだけれど。
「そういえば、まだ名乗ってなかったよね。アタシはフィアールカっていうんだ! 好きに呼んでくれて構わないよ。ねえねえ、それで、キミの名前は?」
子供――フィアールカはさらりと名乗って、ついでに少女にも名乗るよう問いかけた。身を乗り出す相手に気圧されながらも、名を幾度か反芻し覚え込むと、少女は短く答えた。
「……わたしはロマーシカ。こっちの目つきが悪い男はルカー。わたしの方は好きに呼んでくれていい」
自身の名を告げた後、ロマーシカは手を差し出す形でルカーを示し、その名も教える。
呼ばれたことに反応してか、その前に『目つきが悪い』なんて雑な扱いをされたことに対してか。ひょっとしたらまた別の理由があったのかもしれない。目の合った彼が更に厳しい目をしてオレンジの瞳を睨んだ。勿論、睨まれた側はやはり人形のような無表情を崩さないけれど。
「そっか。じゃあ、ロマーシカちゃ――……いや」
少女の言葉を聞いて、フィアールカは嬉しそうに双眸を細めた。それから確かめるように名を呼ぶ。いや、呼ぼうとしたのを途中で止め、視線を落とした。フィアールカの考え込むような表情に、少女が疑問を抱くのも束の間。首を傾げさせる間すら置かず、フィアールカは顔を上げた。
「ねえ、せっかくだからさ、その。ローニャ……って、呼んでもいいかな?」
そこに浮かぶ表情は、つい先ほどまで見せていた快活な笑顔とは違った、はにかむような笑み。唇から紡がれるのは、愛称で呼んでも良いか、なんて問いだった。
まるで、友人のそれだ――とロマーシカは思う。いやロマーシカには友人と呼べる人物なんて居なかったから、本当の友人がどんな風に話してくるかなんて分からないけれど。
ロマーシカの瞳が、戸惑いに揺れる。
先ほども言ったように、好きな呼び方で構わないとは思っているけれど、やはりどうしても親しみを持って接されるのは慣れなかった。
「え、と。大丈夫。そう呼んでくれて構わない」
逃げそうになる目を相手からなるべく逸らさないようにして少女はぎこちなく首肯した。途端、スミレの瞳が輝きを増したように見えた。フィアールカの顔に満面の笑みが咲く。その表情が、ロマーシカにはまるで太陽のように眩しく思えてしまった。
「わぁ、良かった! あは、よろしくね、ローニャ!」
ロマーシカの思考など露知らず、フィアールカはよろしくなんて言うけれど、その言葉にはルカーに触れるものがない。
「よ、よろしく……フィアールカ」
気になって再びルカーをちらりと見るロマーシカだったが、彼は意に介した様子がない。ならば、そんなことを気にしているのは彼女だけになる。だからきっとフィアールカも、親しみやすい同年代に意識が向いていただけなのだろう。そう彼女は一人で納得してしまった。
「それで……ああ、そうそう。アタシがここに来た理由だっけ」
一通りの挨拶が終わったところで、フィアールカが話題を戻した。彼女の話で自己紹介をする流れになったけれど、その前にロマーシカがかけた問いについてはまだ答えられていなかった。思い出したように頷いたオレンジの瞳が、じっとスミレ色を見つめる。
「そう。わたしも他人のことは言えないけど、ここは子供が来るような場所じゃないから」
だから、どうしてこんな場所に来たのか。口にしなかったけれど、その疑問はフィアールカに十分伝わったようで、彼女は小さく頷いた。そうして唇の下に人差し指を当てて考え込むような仕草を見せる。
「うーんと。アタシも一応、旅をしてるってことになる……のかな。うん、そう、旅をしてるんだ。ローニャと同じ!」
どう説明したものかと悩んだ後、一言ずつ確かめるようにして語りだすのは、旅をしているというものだ。
「旅を……一人で?」
自身と同じだ、なんて言われたロマーシカが、驚いたように目を瞬いた。だって、こんな子供が一人で旅をするなんて到底信じられなかったし、無謀だと思ったからだ。
「そうだよ、一人で。これはすぐに終わるからね」
けれど、当然のようにフィアールカは大きく頷いて肯定してみせる。得意げな表情は不安など何もないと表情が語っているけれど、問うた側はやはり心配の念が拭えなかった。もっとも、彼女だって一緒に居る人物が守ってくれるとは限らないし、場合によっては一人旅より危険かもしれない状態なのだけれど。
それよりも、彼女が気になったのは、フィアールカが言った『すぐに終わるはずだ』という言葉だった。
「どうして、すぐに終わるの? それに、そもそもどうして旅を……」
つい問いかければ、今度はスミレの目が瞬かれた。意外そうな表情をして、じっとオレンジの瞳を見つめた後「えっと……ああ、そうだね」なんて呟いた。
「アタシの場合は色んな所を見て回るような旅じゃなくて……人探しだから。と言っても場所は大体分かってるし、探すとも言えないんだけど。だから、すぐ終わるんだ」
双眸を細め、頬を緩めた。けれど困ったように眉尻は垂れ下がっている。苦笑するフィアールカに、問いかけた彼女が納得を示した。確かに確固たる目的や終わりが定まっていて、それに辿り着く方法が既に分かっているのならば、すぐに終わるのだろう。
「んじゃあ、どうしてそこに行かねぇんだよ。こんな所で喋ってねぇで、行けばいいだろ」
そこで会話に割って入るのは、今まで苛立った表情で黙っていたルカーだった。不機嫌な表情は変わっておらず、漆黒の瞳でフィアールカを睨み付け問う彼。唐突に男の声が聞こえれば、二人が揃って彼へ視線を向けた。
ルカーの問いはつまり、どうしてこんな所でお喋りに興じているのだ、というものだ。
探している人物がどんな者かは知らないけれど、場所が分かっているならばさっさと行けばいいはずだ。なのに、彼女は一向に動こうとはしない。それどころか、こうやって他人との談笑に時間を割いてすらいる。まさかここが目的地なはずがないだろうし、ならば何故――そう思考しての問いだった。
彼の言葉に、二人はきょとりと不思議そうな表情で暫し黙ってしまった。賑やかな酒場の中、そこだけが僅かな時間、沈黙で満ちる。
「……あは、お兄さん、まるで大事な子を取られて焦ってるみたいだよ。安心して、アタシが今動いてないのは、ちゃんと理由があるからさ」
やがて口を開いたのは、フィアールカの方だった。テーブルへ体を預けるように頬杖をつくと、大きなつり目でじっとルカーを見据える。そうして紡がれる言葉はからかうようなもので、それを聞いたルカーの眉間には、ぐぐっと深い皺が刻まれていった。
隣に座る彼女の横顔と、更に不快さを見せる彼とを交互に見て、ロマーシカは首を傾ける。
「誰が大事なんだっての。んで、行かねぇ理由は何だ」
からかわれたことが嫌だったのか、彼の低い声には荒々しさが加わる。それと同時に、シトリンの瞳の少女はフィアールカの言葉をとても不思議なものに感じていた。
彼は別に、ロマーシカを大切に思っているわけではない。思うはずがないし、寧ろ彼には他人へそういった感情を向けるにあたって必要なパーツが欠落しているのでは、とすらロマーシカ自身は思っているからだ。後者に関しては分からないけれど、前者はまず間違いないと確信している。
それに加えて、嫌ではないのだけれど、自分が誰かの『大事な人』になるということが、彼女には想像できなかった。
だから、冗談でも『大事な子』なんて言われたのが、不思議だったのだ。
ロマーシカの思考など知る由もなく、二人は会話を続ける。ルカーの問いに、困ったように頬を指先で撫で、フィアールカは語る。
「……場所は知ってる。知ってるだけで、行き方が分かるわけじゃないんだ」
彼女が言いたいことを理解しかねて、ロマーシカは困惑気味の表情で「えっと」なんて漏らした。どういう意味だ、と尋ねれば、スミレの両目が伏せられる。
「実を言うと、ここら辺には来たことがなくってさ、目的の場所がどこにあるのか分からないんだよね。とりあえず適当に歩いていれば着くと思って、歩いてたんだけどさ……」
頬杖をついたままに、どこか落胆したような表情を浮かべて溜息を吐く。深く長い息を出し切ってから、再び口を開き、彼女は続けた。
曰く、途中でここを見つけて、人が多い酒場なら情報収集ができる――なんて、少女と同じことを考え、入ってみたまでは良かった。そこで話しかけやすそうな同年代の少女、つまりロマーシカを見つけたのも良い。それでやっと道を聞けると思ったのだ。
しかし、ロマーシカ達もまた旅をしていて、ここには立ち寄ってみただけだと言う。ならばここら辺の地理に詳しいはずもなく、目的のことも聞けないことが判明した。だからどうしたものかと悩んでいたのだ、と。
「……力になれなくてごめんなさい」
そんな話を聞いてしまうと、ロマーシカの口からは自然に言葉が漏れていた。顔を僅かばかり俯ければ、まっすぐ切り揃えた前髪に隠れ、オレンジの瞳に影が落ちる。
「え? あ、いや、そんなつもりじゃなかったんだ、ごめんっ」
小さく呟くような少女の声を拾って、隣のフィアールカは慌てて手を振った。けれど焦りを滲ませたその声に、ロマーシカの方はますます申し訳なさを抱いてしまったが。
「そう……それなら、いいの」
「でもよぉ、道が分かんねぇくせに、よく一人で行こうと思えたな」
これ以上困らせるわけにもいかないからと、納得した様子を装ってロマーシカが頷くのに被せて、ルカーが呟く。独り言にしては大きな声で、けれどフィアールカを視線に入れることはなく紡ぐ。
「最初は行けると思ったんだよ。実際、ここまでは来れたんだから良いじゃんか」
「ハッ、結局迷ってんなら一緒だろ。無謀なてめぇもだが、止めなかったてめぇの親も、大概酷いよな」
ルカーの声を拾ってフィアールカが抗議する。そんな彼女を見て、ルカーは吐き捨てるように笑いを漏らした。続いて馬鹿にするように、こめかみを指先で叩く形で頭を指し告げる。
その姿と言葉が、フィアールカの何かに引っかかったのだろう。途端、彼女が目を見開いた。
「……お、親は関係ないでしょ。特にアンタみたいな奴には言われたくないよっ」
荒くなる声と、つり上がる眉。先ほどまでロマーシカに見せていた笑顔とは正反対の態度に、ロマーシカは慌ててルカーにストップをかける。
「……ルカー、言い過ぎ。それ以上は駄目」
「チッ、んだよ。短気だな」
玩具を取られた子供のような拗ねた表情をする彼に、ロマーシカは呆れたように溜息を吐き出した。それから一応はルカーが止まったのを確認して、彼女はフィアールカの様子を窺う。
「あの……ごめんなさい、フィアールカ。嫌な気持ちにさせてしまって」
どうしてそこまで親というものに反応するのかは分からないし、ロマーシカがそうさせたわけではないけれど、一緒に居る人物が不快な気分を抱かせたのは事実だ。だから恐る恐る彼女は謝ってみる。
すると、ハッと肩を揺らしてフィアールカがロマーシカを見た。
「あ、はは。大丈夫だよ。気にしないで。父さんを悪く言われたのは、少し嫌だったけど」
ロマーシカは悪くないだろう、と首を傾けるフィアールカの笑みは、やはり感情を押し隠すような無理に作られたもので、申し訳ないという気持ちがロマーシカの中で膨らんでいく。
ルカーを見る。オレンジの瞳に映る彼の黒目は、相手のことは覗き込むくせに、自身の考えを見せないような、静かな闇を湛えていた。
黙っている彼に何を言うでもなく、ロマーシカは視線を逸らすと再びフィアールカに視線を戻す。それから話を切り替えようと俯いて少しだけ考え込んでみれば、話題は存外早く思い付いて、すぐに顔を上げた。
「そういえば、フィアールカ」
「どうしたの、ローニャ?」
突然名を呼ばれれば、フィアールカは大きな目をぱちぱちと瞬いて用件を尋ねる。それにロマーシカは一度ゆったりとした所作で頷くと、一つの問いをかけた。
「地図は、持ってきていないの? もし持っているなら……代わりに読むことはできるかも」
先ほどのフィアールカの台詞には『地図を読むのが苦手だ』という言葉があった。その言葉にロマーシカは、フィアールカには使えなかったとしても地図自体は持っているのでは、という可能性を見出していたのだ。
問われたフィアールカは、暫しぽかんと呆けたような表情をしていた。先ほど与えられた不快な感情がモヤみたいになって、理解させるのを少し遅らせたのかもしれない。けれど、やがて目を真ん丸く見開いて、わなわなと震えだし、そしてバッと音が付きそうな勢いで、フィアールカは身を乗り出した。
「本当に!? ローニャ、地図を読めるの?」
紡ぐ声は心なしか音量が大きくなっていて、しかも少し上擦っていた。言葉だって捲し立てるような早口で並べられている。そんなフィアールカの勢いに、ロマーシカは体が引けそうになってしまうのをぐっと堪え、ただ小さく頷くことで肯定してみせた。
見開かれたフィアールカの目に輝きが宿る。驚きと憧れ、歓喜が混ざって生まれた輝きだ。そこには怒りも悔しさも浮かんではいない。
「良かったぁ~っ! 地図は持って来てたんだ! ね、良かったら案内してくれない?」
喜びのままに声をあげてフィアールカが掴んだのは、ロマーシカの両手だった。彼女が機嫌を直したのは良いけれど、突然のお願いにロマーシカはやはり困惑してしまう。やんわり手を離そうと思ってみても、ロマーシカのそれより僅かに大きなフィアールカの手が、がっちりと捕らえて放さない。
見た目からは想像できない力強さと、硬くなった皮膚の感触。鮮やかな紫の目には、信頼を孕ませて。
「ほら、知らない人に話しかけるのって、勇気がいるでしょ? だから……無理にとは言わないけど、お願いっ」
懇願する少女に、ロマーシカはどうしたものかと思考する。彼女だって地理が分かるわけではないから、案内と呼べるほどのことはできない。ただ少しばかり地図が読めるから、こう進むのだと教えられるかもしれないと思っただけだ。
そう、あくまでロマーシカは教えるだけのつもりだった。しかし、どうやらフィアールカは一緒に来て案内してもらいたいようだ。
「……オイ。何悩んでるんだよ。てめぇは、ここでやることがあったんじゃねえのか」
手を握られたまま思考していたロマーシカが、割って入った男の声にハッとして肩を揺らす。やはりルカーの声だ。先ほどから否定するような言葉しか口にしない彼に、ロマーシカの胸中で一つの感情が生まれる。
色んな感情が合わさったようなそれは言語化するのが難しいけれど、あまり良いものではないのは確実だ。例えるなら、劣化した木の家具から飛び出た小さなトゲのような、チクチクしたものだ。
けれど反論しようとルカーを見てみれば、眉間に皺を寄せた彼の黒目が睨んできているのが見え、彼女は逃げるように視線を逸らした。
「それも、そう……ね」
けれど尚、どこまでも暗い色の瞳はロマーシカに視線を送り続ける。
確かに、ロマーシカは知りたいことがあると言っていた。その知りたいことが何なのかこそルカーには語っていないけれど、用事についてを自身が言い出したことくらいは彼女自身も覚えている。だから、肯定はした。
「ローニャ……もしかして忙しいの? アタシ、無理なこと言っちゃったかな」
二人のやり取りを見て聞いて、フィアールカが困ったような、そして申し訳なさそうな声音と顔で、少女に問いかけた。
それに対して返答をするまでに、僅かな間が開く。
やがてロマーシカがゆっくりと頷きかけて――。
「あぁ、クソ。んだよ、言いてぇことがあるなら、はっきりしろっての。さっきもそう言っただろうが」
ルカーがあげた声に反応して、ロマーシカは止まる。
少女二人が揃ってそちらを見れば、ガシガシと乱暴に頭を掻きながら、やはり目つきの悪い双眸でロマーシカを睨み付ける彼が居た。
わけが分からないと言うように、ロマーシカは首を傾けた。
先ほどまではフィアールカのお願いを引き受けようか悩んでいたことに怒っていたのに、今度は頷こうとしても怒るなんて――そんな疑問で、ロマーシカの胸中は埋め尽くされていた。
「不思議そうな顔してんじゃねぇよ。あからさまに不満抱いてただろうが」
そんな少女にますます腹が立った様子で、ルカーが続ける。その言葉で、何となくロマーシカは、ルカーの言いたいことを理解した。どうしてそんなことを言うのかも、考えるのかも分からないけれど――さっき彼自身が告げたように、言いたいこと、したいことがあるなら言ってほしいようだ。
気遣っているとか、ましてや願いを叶えてやりたいとかそういった感じはないし、どういった理由で言うことを要求しているのかも彼女には理解できなかったけれど、言えと要求されたのは変わりようのない事実だ。
「そう……分かった」
短い相槌と共に頷く。そうしてロマーシカは、フィアールカに顔を向ける。状況について行けていないのか、スミレ色の瞳が揺れているのが見えた。それを真っ直ぐに見つめて、ロマーシカは小さく息を吸い、静かに語る。
「さっきの質問に対する答えなら……別に、忙しいってほどじゃない。用事も、いつでもできることだから。その……心配はしなくて良い」
そしてロマーシカが出した答えは、そんな言葉だった。
つまり、フィアールカのお願いを優先できるということだ。
無表情の彼女が紡いだ言葉を聞くと、フィアールカは間抜けた声を漏らす。けれど、すぐに言葉の意味を理解して喜色を浮かべた。一方でルカーは、その答えが出ることは予想していたけれど、やはり面白くなさそうな表情になったのだが。眉間は僅かに寄せられ、視線は苛立ちの原因を見ないようにと逸らされている。
そんなルカーをフィアールカは気にした様子もなく、隣に座る少女へ微笑んでみせていた。
「それじゃあ、案内……お願いしちゃおうかな」
「分かった……と言っても、きちんと案内できるかは分からないけど」
改めて案内を要求されれば、ロマーシカは小さく頷いた。一応、保険をかけておくのも忘れずに。そうやって答えると、彼女は目だけを動かして、再びルカーを見た。
「あの……ルカー。予定が色々変わって、その……ごめんなさい」
元々、ロマーシカが自分の意思で始めた旅だから、好きにすれば良いはずなのだけれど、今は同行者が居るのだ。しかもその同行者は、お願いを聞いてあの場所から逃がしてくれた人物である。
先ほどルカーに言った『ここに来る理由』を果たせぬまま予定を変えてしまったのも、それによって彼が不快を覚えているのも事実だから、彼女は素直に謝罪した。けれど、俯く彼女を見遣ったルカーは、寧ろ口元を歪ませて更に苛立ったような顔をした。それは一瞬だけのことで、すぐに表情は戻ったけれど。
「好きにしろ。こんな見ず知らずのガキを優先できる余裕があるって言うんだったら俺は何も言わねぇよ。暇だから付き合いもしてやる」
皮肉るようなルカーの言い方に、ロマーシカはただ「そう」と返すのみだ。
そうして顔を上げた彼女だが、ルカーの冷たい態度に対しても、その顔に怒りや悲しみなどといった感情を覗かせることはやはりない。もしかしたら俯いていたときは違ったのかもしれないけれど、今は仮面のような無表情を湛えている。
彼女の顔を見たルカーは、つまらないと言わんばかりにふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。
「じゃあ……地図、見せてもらえる?」
話が終わるのに伴い、ロマーシカも同じように彼から視線を外す。そうしてフィアールカに手を差し出した。要求するのは、先ほど話題に上がっていた地図だ。
「うん、分かったよ。ちょっと待ってね……」
差し出された手を見て、フィアールカはすぐさま二つ返事で頷くと、羽織ったコートの胸ポケットにそっと手を伸ばす。中に突っ込んで、軽くまさぐるように動かすと、やがて何かが取り出される。それは、折り畳まれた一枚の紙だった。
はい、なんて声と共にロマーシカの手に置かれたことから、それが地図なのだと彼女は理解した。けれど、胸中で首を傾げてもいた。
その地図はよく使われているものなのか、折り目がきっちりと付いて平たくなっており、色も少しばかり黄ばんでいる。フィアールカは地図を読めないと言っていたから、そんなに使うことがないのだろう――と思っていたロマーシカとしては、年季の入った見た目の地図は、非常に意外なものだった。
ただそれを口にすることはせず、手の平に鎮座する紙をそっともう片方の手で持って、机の上に広げてみる。思ったよりも大きなそれは確かに何の変哲もない地図だった。色褪せてこそいるけれど、まだはっきりと読むことができる。そういえば駅の壁にも似たような地形を示す地図が貼られていたかもしれない。
そんな地図の一点には赤色の円が描かれている。セピアがかった紙の上で、その赤はよく目立つ。囲まれているのは一つの四角形で、ロマーシカの知識が正しければ、それが建物を表しているはずだ。見れば、円の外にも角ばった図形が模様を描くように並んでいる。
「ここが、目的地なの?」
「……うん、多分。聞いた番地があっていれば、ね」
円の上に人差し指を置いてロマーシカは尋ねた。紫の瞳が揺れて、それからこくりと小さく頷く。その様子を見ると、聞いた番号などを頼りに地図の中から目的の住所を探すフィアールカが目に浮かぶようだ。
それに相槌を打ち、ロマーシカは改めて地図に視線を落とす。
店や公共施設には名前の他に、どういった施設なのかを示す記号が描かれている。逆に住宅の類には家名が記されるのみで、施設との区別がつけられているのが一般的な地図だ。彼女が見ているこの地図も、相違はない。
ついでに酒場もまた専用の記号があるため、ロマーシカが現在地を見つけるのも早かった。
やがて地図をそっと畳んで、彼女は顔を上げる。
「大体分かった。念のため、もう暫く借りるけど……とりあえず、いつでも行ける」
「え、もう? そんなすぐに分かっちゃうものなの?」
フィアールカが僅かな驚きを覚えて、目を瞬き問う。確かに、ロマーシカが地図を広げてから閉じるまでの時間はそんなに長いものではなかった。しかし、かといって短いわけでもない。フィアールカは地図を読めないから普通を知らない……というのを考慮するとしても、ロマーシカにとってはその問いが不思議だった。
「複雑に道が入り組んでるとか、そういうわけじゃないから……多分、普通だと思う」
他人とあまり関わりがなかったロマーシカには、本当に普通なのかは分かりかねたけれど、とにかく道が分かったのは事実だ。
ロマーシカの言葉を聞いて相槌を打つと、フィアールカはふと机の縁に両手を置いた。腕に力を入れて椅子をぐぐっと後ろに下げれば、そこから飛び降りニッと快活に笑う。それから流れるような動作で、まるで物語の騎士が姫にそうするように手を差し出した。
オレンジの両目が、ぱちぱちと二度、ゆっくり瞬かれる。
「道も分かったらしいし……早速だけど行こっか、ローニャ」
慣れ親しんだ人物に話しかけるようなラフな口調に、ロマーシカはハッとすると慌てて頷きその手を取って椅子を滑るように飛び降りた。
「ほら、行こっ」
「……ちょっと待って」
「へっ?」
ロマーシカが着地したのを確認した途端、フィアールカが出口へ先導するように一歩踏み出す。けれどそれは寸前でロマーシカに引き留められた。驚いたような声がフィアールカの口から漏れて、ついで何故だと言うように彼女は振り返る。
「ルカー、来ないの?」
「はぁ……そんなに急かさねぇでも、ちゃんと行くっての」
彼女の視界に映るのは、依然として不機嫌と気怠さを混ぜたような表情をしたまま立ち上がる様子のないルカーと、それに話しかけるロマーシカ。シトリンの瞳がじっとルカー見つめていれば、やがてグレーの髪を揺らして、彼はゆらりと立ち上がった。
気付けば、フィアールカはその光景を食い入るように見つめていた。
「……フィアールカ?」
「へあっ!? な、何、ローニャ」
やがてルカーと共に戻ってきたロマーシカが、立ち尽くすフィアールカに声をかける。すると、彼女は上擦った声をあげて体を跳ねさせた。まるでここではないどこかを見ていて、突然引き戻されたかのような反応をする彼女に、ロマーシカは首を傾ける。
「いや……ぼうっとしていたみたいだから。どうかしたの?」
「あ、えっと、その……あはは。何でもないよ。ただ、自然に接するんだなぁって思っただけだから……気にしないで。それより、今度こそ行こっ」
「え? どういう、あっ……」
何でもないと言うその表情はどこか隠しきれない焦りを滲ませていて、先ほどのような眩しさに欠ける。何より、続けられた『自然に接する』なんて言葉の意味がロマーシカには理解できなくて。
けれど問いが紡がれるよりも先に手を引かれてしまい、言葉になることはなかった。
力強い腕に引っ張られるまま、出入り口へと早足気味に向かう。そうしてドアベルの音色を背に酒場を出れば、数秒の後に再び小気味よい高音を鳴らして、ルカーもやって来る。
「えっと……それじゃあ、こっち」
全員が揃ったのを確認してから、ロマーシカは辺りをぐるりと見て、道の一つをそっと指差した。先ほど見た地図の記憶と実際の景色とを照らし合わせながら指し示したのは、目的地へ続く道だ。二人がその道へ視線を向けるのとほぼ同時に、自らが先導するようにロマーシカが歩き出す。
隣を横切って少女が目の前へ出てくると、先に歩き出したのはルカーだ。彼はすぐにロマーシカに追い付いて、その隣に並ぶ。
「あっ待ってローニャ! 置いて行かないで~っ」
ごく自然な光景にスミレの双眸が瞬かれる。それからハッと正気付いた様子で、慌てて声をあげ二人の背中を追った。数テンポほど遅れたところで、あまり距離は空いていない。小走りに駆け寄って、フィアールカもまたロマーシカの隣にぐいっと出て並んだ。
フィアールカよりちょっとだけ小さな少女と、大きなルカーの、真ん中に割って入るように。
「ローニャったら、先に行くなんて酷いよ~っ! 案内してくれるって話だったでしょ?」
「えっと……ごめんなさい」
間に入る彼女へ少し驚くロマーシカだが、何かを言うよりも先にフィアールカが口を開く。
上半身を前へ突き出すような体勢で少女の顔を覗き込みながら、紡ぐ言葉は相手の行いを咎めるようなもの。けれど決して怒りの表情は浮かんでいない。寧ろ、少しからかう程度の意図が強かったのだろう、頬は緩んでいる。語調だって強くなく、笑いすら含んでいた。
それを感じ取ってか、彼女の顔を見たロマーシカも、笑むことこそないが緊張に顔を強張らせることもなく、極めてリラックスした様子で謝った。謝るのにリラックスしているのは少し変かもしれないけれど。
「そういえば、フィアールカが探しているのって……どんな人物なの?」
歩きながら、不意にロマーシカが問いかける。
人を探しだすのが目的だと聞いていたけれど、どんな人物なのかは聞かされていない。そのことに気付いたら、少し興味が湧いたのだ。同じ年頃の少女と会話を交わすという、ロマーシカにとっては滅多に経験できない行為が楽しいものだと感じられたから――なんていうものも話題を振る理由に組み込まれていたが。
問われれば、フィアールカは人差し指を下唇に押し当て、スミレの瞳を空へ向ける。考え込むように小さく唸ると、やがてまた笑った。今度は、はにかむようなそれだ。
「とっても、可愛らしい女の子だよ。そう、ローニャみたいな柔らかい雰囲気の子でね。あまり話せてはいないけど、会う機会ができたからさ。もっと仲良くなりたいなって」
少し恥ずかしそうな表情の彼女から語られる言葉は、本当にその人物と会えるのが嬉しくて、仲良くなりたがっている人物のそれなのだろうと素直に思えた。けれど、ロマーシカはそれよりも気になることがあって、首を傾けた。
「……わたし、みたいな?」
「うん、ローニャみたいに、とぉ~っても可愛い子だよ」
ロマーシカのように。その言葉に続く形容詞が、言われた本人には聞き馴染みがないものだったから、困ったように何とも言えない声を漏らした。
「えっと……それは、どういう」
フィアールカの言葉はつまり、ロマーシカが柔らかい雰囲気を持つ、可愛らしい少女であると言っているのと同じだ。少なくともロマーシカはそう解釈した。言ってきたフィアールカは仮にも初対面だし、どんな人物かなんて問いに対して世辞を返すのも理解しがたい。
「あはは、そのままの意味だよ」
困惑する少女に対して、フィアールカは笑みを崩すことなく答えた。そのままの意味と言われても彼女の意図するところがロマーシカには理解できない。だから何を返すこともできず、僅かな間を開けて「そう」とだけ呟くと、再び前を見た。
この辺りは駅が近いからか、住宅よりは店の類が多く見受けられる。あまりお腹は空いていないし、もっと豪華な料理も見慣れてはいたけれど、看板に描かれた料理の絵には、ロマーシカも少しだけ食欲をそそられる。
ぐるり。獣が呻るような低い音がする。決してロマーシカのものではない。それはすぐ隣から聞こえたようで、ロマーシカは自然とフィアールカを一瞥した。
「あー……はは、その、ローニャ。お腹……空かない?」
視線を察したフィアールカもまたちらりとロマーシカを見ては、スミレ色を細める。恥ずかしそうに頬を指先で掻き、遠慮がちに問いかけた。
腹が空かないか。そう聞かれると、ロマーシカは歩む足をそのまま、俯いて考え込む。
彼女自身は、まだ腹が減ったわけでもない。それに相手も自身は空腹だと直接的に言ったわけではないのだけれど、わざわざそんな話題を持ち出すということは腹が減ったと言っているも同然だろう。ならばどうするかは決まっている。
ゆっくりと顔を上げ、再び正面に伸びる道を見る。そうしながら、彼女は静かにフィアールカへ問いかけた。
「フィアールカは、苦手なものってある?」
「うーん、特にそういうのは無いかな。よほどのことが無い限り、何でも食べるよ」
問いに対するフィアールカの返事は、どの店でどんな料理が提供されているかなど詳しく知らないロマーシカにとって、とても好都合なものだった。
「……分かった。それなら、この辺りの店に少し寄ろうと思うけど……構わない?」
ゆるりと首を動かし、周囲に立ち並ぶ様々な店舗を眺めながら問うロマーシカの頬へ、隣からの視線が集中する。
「いいの? 構わないどころか、寧ろ行きたい!」
フィアールカの目が、期待に満ちてきらきらと輝く。そんな反応をされてしまっては、断ることもできなくなってしまう――とロマーシカは思う。いや断るつもりなんて一切なかったのだけれど。
「いやぁ……はは、朝から何も食べてなくってさ。お腹、空いてたんだよね」
ロマーシカの隣にくっつくようにして、フィアールカは歩く。へにゃっとした締まりのないその笑みを横目に、ロマーシカは彼女のお喋りをただ聞いていた。
「でも、ロ――……」
フィアールカが再び口を開いたのが見えた。
けれどその声がロマーシカの耳に届くことはない。
すぐ近く、道の真ん中を獣車が横切ったからだ。どたどたとした騒がしい物音に、フィアールカのよく通る声すら全てかき消された。
その言葉を紡ぐときだけ、先ほどの明るいものではなく淡い微笑みになっていたのが……スミレの瞳に僅かな憂いが浮かんでいたのが、ロマーシカは凄く気になってしまったのに。
「あ……ごめんなさい、もう一回言ってくれる?」
「ううん、気にしないで。ローニャはお腹が空いてないの? ってだけだから」
何と言ったのか。そんな表情を浮かべる理由は、聞き取れなかった言葉の中にあるのだろうか。そんな思いのもと、申し訳なさそうな表情を浮かべてロマーシカが尋ねると、フィアールカはひらひらと片手を振って笑う。
その表情はとっくに今まで通りの明るいものに変わってしまっていて、言葉だって特に不自然なものはない。あんな表情をした理由など何一つ見えなくて、ロマーシカは困惑してしまう。
「ほら、旅をしてるんでしょ? アタシが言えたことじゃないけど、食事は大事だからね」
僅かに小首を傾けるロマーシカを見て、フィアールカは補足するようにしてそう問う。彼女の表情がほとんど変わらないから、問う理由を疑問に思ったのだと、勘違いしてしまったのだ。
「ちゃんと食べないと体も壊しちゃうしさ。ね、きちんと食べさせてもらってる?」
「今日の朝なら、お腹いっぱい……わたしは、だけど」
乗り出すようにロマーシカの方へ身を寄せるフィアールカ。そんな彼女が出した問いに、ロマーシカはゆっくりと静かに答えた。どうして知り合ったばかりの自分をそんなに気にかけてくるのか、よく分からない……そう思いながら。
「え、そうなの? そっかそっかぁ、それなら良いんだけどさ」
きょとん、と目を瞬くフィアールカに、ロマーシカは小さな疑問を覚える。
答えがどちらであるかなんて知るはずもないフィアールカが、とても意外そうな顔をしていたからだ。
けれどそれを口に出すことはなく、ロマーシカは短く「そう」とだけ返す。そうして周囲に再び視線を向け、一つの建物を視界に見とめると、歩むペースを落として指差した。
「とりあえず……ここで良い?」
「ローニャが選ぶならどこでも良いよ」
その建物は、何の変哲もない飲食店の一つだ。多めに設けられた窓のガラス越しに店内の様子が窺える。どうしてそれを選んだのかと言えば特に理由はない。なんとなく目に付いたのと、あまり混んでいなかったからだ。
フィアールカは、少女の指差す方向を見ると快活に笑って色好い返事をしてみせた。彼女を挟んだ隣では、ルカーがひどく興味なさげな表情で欠伸を漏らしている。
双方に異議がないのであれば、ここで決定だ。
「……じゃあ、ここにしよう」
1
その光景に、ロマーシカはただただ唖然としていた。
彼女らが座るテーブルには所狭しと様々な料理が並べられており、ロマーシカ以外の二人がそれを次々と食らっていく。
とろみのあるソースをかけた宙魚のムニエル。塩と胡椒だけで味付けしたシンプルな炒め物は、メニューに描かれていた絵よりも肉が多めだ。野菜と白身魚がごろごろ入ったスープは食べ応えがありそうで、もはや煮物と言っても差し支えないだろう。
中に具を入れて焼いたパンと、忘れた頃に蒸した野菜のサラダ。あとはよくある鳥卵のオムレツだとか、塩漬けにした魚卵を薄く焼いた小麦の生地で包んだもの。
それ以上はもう何があるか確認する気も起きない。それほどまでに沢山の料理が運ばれてきて、ロマーシカは見ているだけで腹が膨れそうだと思ってしまう。
けれど、それ以上に驚きを感じていた。
ルカーは人外である上に体格も大きいから、ここまでとは思わなくても、沢山食べるのは何となく納得できる。だが、隣に居る少女の方はどうだ。ルカーほどではないとはいえ似たようなペースで、似たような量を消費していく様が、普段他人の食事など見る機会のなかったロマーシカの目には、とても異常に映った。
普段人の形をしている人外は珍しくはないし、もしかしたら同じように沢山食べるような種族なのかもしれないけれど、その体のどこにそんな量が入るのだろうか。ロマーシカが見ていないだけで、他のテーブルでも似たような量を食べる者がいる可能性はあるけれど、あまり考えたくはない。
ついつい財布の中を確認したくなりつつも、隣に座る彼女に余計な心配をかけさせるのは良くないと思ってロマーシカはぐっと堪えた。流石に足りなくなることはないはずだ。無論、こんな食事を続けられるのは勘弁だから、ルカーには後で注意をしておかないといけない。
そこでまた一つ、皿が空になったのを見て、ロマーシカは溜息を零した。
「……よく、そんなに食べられる」
「ローニャこそ、スープだけで足りるの?」
「具も沢山入ってるから、わたしはこれで十分」
ロマーシカが漏らした呟きを拾って、フィアールカが料理から顔を上げた。
きょとりと不思議そうな顔でロマーシカを見つめる彼女の問いに、シトリンの目はそっと伏せられる。そうして普通は――なんて言いかけて、自分は、という言葉に置き換えてロマーシカは答えた。
「本当に? それなら良いんだけどね」
今のロマーシカよりも食べる人しか周りに居ないから心配になったのだと言って、フィアールカは笑う。そうして、もはや獣の捕食とでも形容するべき食事を再開した。
やがて置かれた料理のほとんどを二人が平らげた頃合いになって、ロマーシカは隣の少女を再び見た。すると彼女は、テーブルの隅に追いやられていた大きなカップに手を伸ばす。その中身をちらりと見て、ロマーシカはすぐに目を逸らした。
カップの中身は、コーヒーだった。
ロマーシカは、決してコーヒーが嫌いなわけではない。どちらかといえばお茶の方が好きではあるけれど、コーヒーで顔を歪めるような子供ではない。そんな彼女がどうしてフィアールカのカップに不快を露わにしたのか。
――元々のそれは、黒々とした、何の変哲もないコーヒーだった。
フィアールカが注文する際に、普通のカップではなく、もっと大きな器にしてくれとわざわざ要求していたのは記憶に新しい。中身の量は変えぬままにと言うから、ロマーシカは疑問に思っていた。
そうして、いざ運ばれてきたコーヒーを見ると、フィアールカはまず、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いを堪能した。そこまでは問題がなかったのだ。けれど、その次の行動が酷かった。
彼女は、テーブルの隅に置かれた備え付けのシュガーポットを見つけると、それを手に取った。中身を小さなトングで掴み、少しずつカップへと投入していく。角砂糖の数が一つ、二つなら良かった。苦みを嫌う者がいるのは理解できる。が、四つ目まで来た辺りでロマーシカの顔は引きつっていた。
ロマーシカが、あまり甘いものを好まないというのもあったけれど、それを抜きにしたってそれは多いだろうと。
それでも、フィアールカの手は止まらない。それどころか、一つずつ入れていくのが面倒になったのか、突然シュガーポットをカップの上で傾けた。それは、躊躇の欠片も無い手つきだった。砂糖は重力に逆らうことなく、どぽどぽとカップの中に落ちていく。
何をしているのだ、と声をあげそうになるロマーシカなど眼中になく、フィアールカは全ての砂糖がカップに入ると頷いて、次に店内を駆け回る店員を見た。
今度は何をするのかと、ロマーシカは嫌な予感に駆られる。
彼女が注文したのは、ピッチャーいっぱいのミルクだった。なみなみと注がれたミルクが届くと、彼女はそれも甘い黒の液体に注いだ。大きかったカップに、最初は六分目くらいまでしか入っていなかったそれは、気付けばふちのギリギリまでかさを増していた。
大量の砂糖でとろみがついて、さらにミルクで白濁とした、コーヒーだった何かをこぼさないようにスプーンでそっとかき混ぜると、彼女はやっと満足げに口角を持ち上げる。そうして驚異的なバランスでもってカップを持ち上げ、口元に運んだ。
「……甘く、ないの?」
「何言ってるの、甘いに決まってるじゃん。それが美味しいんでしょ。コーヒーの味もするし、やっぱりこれくらいが一番だね」
元々コーヒーだったのだから、コーヒーの味がしなければ、それはもはや別物だろう。今のそれも十分、顎が溶けそうに甘い液体になっている。そんな言葉をぐっと飲み込んで、ロマーシカは溜息交じりに「そう」と返すことしかできなかった。
今、カップの中にはその白濁液が四分目ほどまで残っている。よくそんなに飲めるものだと思いながら、ロマーシカは空にしたスープ皿を見下ろした。
中に置かれた銀色のスプーン。そこに映った逆さまの自分と目が合って、ロマーシカはすっと目を伏せた。
「ふ~……ごちそうさまでした」
満足げな溜息と共に食事を終える挨拶が聞こえて、ロマーシカは瞼を持ち上げる。
隣を見遣ればフィアールカが満腹だと言うように腹を撫でていて、正面に居るルカーはといえば、とっくに食事を終えていたのか、やはり機嫌が悪そうな表情でテーブルに頬杖をついていた。
二人がやっと食べ終わったことを確認すると、ロマーシカは少し安心したように、小さく息を吐き出した。
席の隅に置かれていた伝票を手にし、請求額を見て顔をしかめる。足りなくなることはないけれど、予想よりも大きな出費になってしまった。ちらりと財布を見下ろしてからゆるゆると首を横に振り、そして二人に「行こう」と促す。
「あ、見せて。アタシの分はちゃんと自分で払うから」
「そうしてもらえると……とても助かる」
席を立とうとするロマーシカに手を伸ばして、フィアールカが伝票を見せろと要求する。
奢る約束などしていないし、義理もない。だから、彼女から言い出してくれたことに安堵と感謝を覚えつつ、ロマーシカは要求されるままにそれを差し出した。フィアールカが受け取り、紙面の文字を見た途端に顔を引き攣らせる。
「……うわぁ。自分で頼んでおいて言うのも良くないけど、凄い額だね」
そこに書かれた数字は最初が六で、その右隣にリユーラ通貨を表す記号。続いて並ぶ二つの数字と、最後にルドリーの記号。
リユーラとは、ルドリーの百倍の価値がある通貨だ。つまり伝票に書かれた金額をルドリーに換算すると、六百と少しになる。それがどれほどの金額なのかと言えば、四人家族の一日分の予算は平均して九百ルドリーほどだ、といえば分かりやすいだろうか。
とにかく、今のところ収入を得られる予定の無いロマーシカが簡単に出せるような金額ではない。 いやそもそも、外食とはいえ、こんな金額を昼飯にかける方がおかしいのだ。
憂鬱そうな憂鬱そうな溜息を漏らすフィアールカを少し心配するように見ながら、ロマーシカは今度こそ席を立った。続いてルカーが椅子を引き、フィアールカが最後に立ち上がった。
「いやぁ~……ちょっと痛い出費だったけど、なかなかに美味しかったね。満足、満足」
会計を済ませて店を出れば、フィアールカは途端に上機嫌にそう言った。幸せを体現したような彼女の笑みに、ロマーシカは安堵を覚えた。それなら良かったなんて言って、また目的地への道を進み始めようとする。
けれど突然、それに待ったがかけられた。
「あぁ~っ!?」
何かを思い出したように、唐突に声をあげるフィアールカ。その声に驚いて、ロマーシカは止まる。そうして彼女を見遣ってみれば、コートの腰ポケットを慌ててまさぐっているのが、オレンジの瞳に映る。やがてポケットから取り出されたのは小さな手鏡だった。
どうしてそこで手鏡を出したのか、疑問に首を傾ける少女に、フィアールカは困ったように眉尻を下げて笑った。
「ごめん、ローニャ。実は、町に着いたら連絡してって家族に言われてたんだけど、すっかり忘れちゃってて。だから、少し待っててもらっていい?」
これで話してくる、と言って軽く持ち上げるのは手鏡だ。裏側に彫られた装飾の中央に石がはめられているのを見て、ロマーシカはその鏡が何なのか理解し、フィアールカがそれを出したことに納得した。
その鏡は、ただの鏡ではない。魔法具の一つだ。
魔法具とは、特定の条件を満たすことで決められた魔法を発動できる道具の総称だ。発動するための魔力は魔法具のどこかに取り付けられた魔力石を使うため、使用者の魔力は使用しないのが特徴だ。そしてフィアールカが持つ手鏡は、彼女の口ぶりからして離れた人物と話すためのものだろう。
返事に迷うように、ちらりと一度ロマーシカはルカーを見上げた。
流石に家族と話すのを禁止できるはずもないのだけれど、またフィアールカを優先してしまうことになるし、何よりそれで待つのはロマーシカだけではない。だからロマーシカは、自分の願いを聞き入れて手伝ってくれた彼を退屈させてしまうのが、少しだけ申し訳なく思えてしまった。
「……大丈夫、行ってきて。わたし達はここで待っている」
それでもロマーシカは首を縦に振って、大丈夫だと告げる。道の脇を指す彼女に、フィアールカは再び眩しい笑みを咲かせると大きく頷いてみせた。
「うん、ありがとう! すぐ終わらせてくるから!」
そう言うや否や駆けて行く少女が路地裏に隠れて完全に見えなくなると同時に、ロマーシカは溜息を吐く。そうしてゆるりとした動作でルカーを振り向いた。
「そういえばルカー。言いたいことが――」
2
少女らが待つと言った場所からそれほど離れていない位置で、道を横に外れた。
レンガで造られた建物同士の隙間にするりと身を滑り込ませたところで、いつの間にか呼吸が浅くなっていることに彼女は気付き、胸にそっと手を当てる。
路地裏は大通りと違って熱の魔法を使っていないため気温が低くなっているのに、光も入ってこないせいで非常に寒い。息を吸うだけで肺の中が凍らされたように冷え込み、僅かに痛みすら覚えるほどだ。
そんなことを気にした様子もなく、彼女、フィアールカはふらりと力なく壁に凭れかかった。まずはこの荒い呼吸を整えることが先だ。
彼女の顔色は非常に悪い。緊張と焦り、恐怖。そして憎悪を混ぜ合わせて煮詰めたような表情は、まるでこの世の終わりに直面したかのようだ。先ほどまでの明朗快活な笑みなどとっくに消え去っていて、別人のような印象すら与える。
丈の合っていないコートの袖で額を拭うと、彼女は頭上を仰ぎ見た。
重なった屋根同士に阻まれて、空は見えやしない。
次に顔を横に向けて大通りを見遣る。初めて意識したときから何ら変わらずこの国は雪が積もっていて、けれど彼女の背中は汗でじっとりと濡れている。服が体に貼り付く感触に僅かな不快感を覚えながら、やがて握ったままだった鏡をそっと顔の前まで持ち上げた。
鏡が……いや、自身の手が小刻みに震えているのが見える。フィアールカは思わず乾いた笑いを漏らして手を下ろすと、もう片方の手でくしゃりと自身の短髪を掴み、一つ深呼吸をすると呟いた。
「まさか……勘違いなわけもないし、ね」
決して、探している人物を間違えたとか、そういう話ではない。
どうして、と。そんな思考の渦に飲み込まれそうになって、寸前のところで今はそんなことを考えるタイミングではないと気付き慌てて自身を引き戻す。一度それについて考えるのを止め、胸に手を置いた。いつの間にか呼吸も落ち着いていたようだ。
再び大きく息を吸う。ゆっくりと吐き出し、鏡を持った手をまた持ち上げた。手の震えも収まっているのを確認すれば、フィアールカは握った鏡へ息を吐きかける。鏡面は当然曇ってしまい、全てを薄ぼんやりとしか映さなくなる。
その直後だった。鏡面が突然淡い輝きを放ち始め、その光に少女の顔が照らされる。
見慣れたその光景にふっと相好を崩してみればすぐに光が収まって、何かが『鮮明に』浮かび上がった。幼い彼女の顔ではない。彼女のよく知る人物の顔だった。
「聞こえてる? ……隊長」
そこに映るのは、がっちりとした厳つい四角の顔に、白の短い顎髭を生やした中年の男。
小さな傭兵部隊の隊長、アンドロス・ニコラウスだ。彼女にとっては自身が所属する組織のリーダーで、そして……第二の父親のような存在でもある。
「ああ、きちんと聞こえている。そっちはどうだ?」
「うん、こっちも大丈夫」
隊長と呼ばれた彼が頷き、逆に問い返す。その声をしっかりと聞き取れば、フィアールカはへらっと笑って同じように首を縦に振った。相手がつられて目元を緩めているのが分かれば、心が少しずつ落ち着いていくのを感じる。
けれどそれも一瞬のこと。互いに確認が終われば、用件を話さなければいけない。他愛もないお喋りをするために繋いだわけではないし、何より『目標』が、いつ、何をしでかすかも分かっていないのだから。
鏡越しに話す相手も同じ認識のようで、フィアールカが表情を引き締めれば、同じように緊張した面持ちになって話を切り出した。
「それで……連絡を寄越すということは何かあったんだろう? フィアールカ」
「早速『目標』に接触したよ。魔法具が反応してたから……ご息女の方は間違いないと思うよ。男が一緒に居たから、多分そいつが誘拐犯」
貸し出されていた捜索用の魔法具は、探したい人物の一部などを入れることで魔力を登録して、その魔力を持った人物が居る方角を示すものだ。それがあの酒場までフィアールカを導き、ロマーシカと巡り合わせた。
あの場には、教えられた容姿に一致する少女などロマーシカ以外に居なかったこと、行動を共にする人物がいたことから彼女が攫われた人物であるのは間違いない。
フィアールカの報告を聞けば、アンドロスは僅かばかり考え込むように顎に手を添えて俯いた。ふうむと声を漏らした後、再び鏡越しの彼女に視線を向ける。
「そうか。人気のない所に誘導しての捕獲は……――いや待て」
できそうか。そう問おうとして、アンドロスはふと何かに気付いたように言葉を止めた。
じっと覗き込むように彼は鏡に顔を近付けて、かと思えば数秒後には離れる。再び顔全体が映ったアンドロスの表情は、ひどく気遣わしげなものだった。
「……フィアールカ。その顔からして、何か想定外のことでもあったな?」
その言葉を聞いた途端、彼女の心臓がどきりと跳ねる。決して隠したいというわけではないけれど、そんなに分かりやすい顔をしていただろうかと不安になってしまって、ぺたぺたと片手を頬に触れさせる。その行動がアンドロスの言葉を肯定しているようなものだから、彼はついつい呆れに溜息を吐いた。
「何があったんだ。話してみろ」
静かな、けれど有無を言わせぬような厳しい声でアンドロスが問えば、フィアールカはうっと顔を引き攣らせて視線を逸らす。そうして、ひどく言いづらそうに口をもごつかせながらぽつりぽつりと語った。
「……アタシらが探してるもう一つの目標。ご息女を誘拐した犯人についてだけどさ」
そう前置いて、片手で肩を抱く。思い出すだけでどうしようもない感情がじわじわと溢れ出しそうになるのを必死に抑えながら、上手く働かない頭で言葉を纏める。
「その誘拐犯……父さんの、仇だった」
言葉にできたのはそれだけで、彼女は言い終わると俯いてしまう。芯のある普段の声と違い、ひどく弱々しい音色で語られたその事実を聞いて、アンドロスは驚きに目を見開いた。
彼は、その存在が去った後にこの大陸へ移ってきたため、それの脅威について詳しくは知らない。けれど聞いた話が凄まじかったことは覚えているし、このフィアールカという少女がどれだけの感情をその存在に向けているのかも知っている。
「勘違いという可能性は? あれからもう百年だろう?」
「アタシが間違えるわけないよ。忘れもしないあの顔、あの格好、名前。それに……忌々しいくらい、父さんと同じ種族の匂いがしたから」
可能性に縋るようなアンドロスの言葉に、彼女はきっぱりと否で返す。
オレンジの目をしたあの少女、ロマーシカと一緒に居た彼が、まさしく仇なのだと……彼女は確信していた。
だらしなく前髪を伸ばしたグレーの髪も、それだけで人を殺せそうなくらい鋭い黒の両目も。鍛えられた大きな体に、服装だって……町をいくつも壊滅させ、他者を恐怖に陥れ、そして父を殺した当時のまま。まるで彼だけが止まっていたかのように、何ら変わりがない。
彼女に呼ばれていた名前も、新聞に載ったものと同じで『ルカー』だった。加えて、純血ほど鼻が敏感なわけではないけれど……彼女の『半分』と、父と同じ種族、人狼族の匂いがするのくらいは簡単に分かった。
ならば勘違いなどではなく、彼こそがまさしく、『仇敵の』ルカー本人であるのだろう。
どうして、と思うことはいくつもあった。
彼がどうして生きているのか。どうして彼は今まで被害が出ておらず、今だって誰も殺そうとしていなかったのか。彼が何故殺しではなく『誘拐』なんて真似をしているのか。そもそも領主の娘とはいえ幼い少女を選んだ理由は何なのか。誘拐の目的は……。
挙げていけばキリがないくらいに、沢山の疑問が浮かび、巡る思考に再び引きずり込まれそうになって何とか自身を引き留める。
「……そうか。お前が言うのなら、確かなんだろう。そいつのことを俺は知らんからな」
彼女がそこまで言いきるのだ。ならばそれが事実なのだろうとアンドロスは頷き、ゆっくりと目を瞬くと、フィアールカに一つの問いを投げた。
「つまり、呼んだのは援軍を求めてか?」
「そんなわけないでしょ。これはただの報告だよ。あいつはアタシが倒す」
あの時は父が一人で出て行ったし、フィアールカは幼かったから、何もできなかった。
でも今は、アンドロス達に拾われて、傭兵部隊の一人として少しずつ力を付けてきている。それにこの百年の間、ルカーによる被害の話など聞こえてこなかったから、彼にはブランクがあることも明白だ。ならば今しかない。
第二の家族で、大切な仲間。そんなアンドロス達の手を煩わせることなく一人で終わらせる。
「駄目だ」
彼女の語りを聞き、アンドロスがきっぱりと告げる。
語調は自然と強くなり、気付けば声も威嚇するような低さを持ってしまっていた。表情は焦りからか眉が寄り、ひどく強張ったものになっている。しかし、そんなことを意識もしていられないほどに、彼女の返事はとても頷いてやれるものではなかった。
薄々、そんな可能性は感じ取っていた。それでもまさかそんなはずはないだろうと、縋るような意図を込めて問いかけたのに、本当に『一人でやる』と返されてしまったことが、アンドロスに悲しみと怒りを抱かせた。
けれど、ルカーが処刑されたと聞いてフィアールカが蓋をしていた感情が……憎悪と復讐心が、それと会うことで諦める理由がなくなり、吹き出てしまったから。彼女は叩き付けるように鏡へと怒鳴り付ける。
「どうして!? 確かにちょっと危険かもしれないけど、アタシだって皆に付いて行って戦うこともあったし、力も付いてる!」
「ちょっとじゃない。危険過ぎる。それに、倒すのではなく捕獲が依頼の内容だったはずだろう? 付け足すなら、お前が今まで戦ったのは魔獣ばかりだ。人間でもなければ、ましてやかつて市を一つ壊滅させたような奴でもない」
フィアールカの言葉に対して一つずつ丁寧に説明していく形で、アンドロスは説得を試みる。
けれど、フィアールカはそれに納得の意を示すことはない。ぶんぶんと首を横へ振ると、今にも泣きだしそうな目でアンドロスを睨み付けた。
「でも……! せっかく見つけたのに……っ」
「フィアールカ。お前は今、仕事の真っ最中だということを忘れるな。仇のことより、ご息女の安全を考え、保護した上で、なるべく確実に誘拐犯を捕獲するのがお前の仕事だ」
我儘(わがまま)を言う子供のような彼女を遮って、アンドロスは静かに告げる。
そう、彼女は仕事の真っ最中だ。それも仲間から「彼女なら大丈夫」と信頼された上で受けた仕事だ。ならば仕事を完遂させることを第一に考えるべきだと語り、アンドロスはふと柔らかな微笑みをその顔に浮かべる。
「お前の気持ちは痛いほどに伝わっている。だが、依頼を完遂すること、そして自分の身を守ること。それを優先するんだ」
手のかかる我が子を見るような、愛しげな表情だった。
ごくりと唾を飲んで、フィアールカはその顔を暫し眺め……やがて、こくりと頷いた。
「……分かった」
その返事に、アンドロスはほっと胸を撫で下ろした。やっと理解してくれたかとか、彼女が無謀なことをしでかす前に止められて良かったとか。言語化するならそういう感情が胸中には広がっていた。
「それなら、今から他の――」
「ご息女を保護、並びに誘拐犯を捕獲。それがアタシの仕事なんでしょ? それくらいならアタシ一人でもできるよ。大丈夫、心配しないで」
今から他の仲間も向かわせる。だからなるべく時間を稼げ。そう告げようとするアンドロスだったが、しかしその言葉が最後まで紡がれることはなかった。
彼の言葉に被せるようにして、フィアールカが普段通りの明るい笑みと共に語る。それだけで、彼女が納得した振りをしているだけだったことが手に取るように理解できてしまい、彼は目を見開く。胸が締め付けられるような苦しさを感じた。
彼女が弱いとは決して言わないし、もしかしたら本当にルカーという男が百年間で弱くなっている可能性もある。けれど、それでも町どころか市を壊滅させたレベルの人物に、彼女が勝てるとは、アンドロスには到底思えなかった。
引き留めようと口を開く彼に、しかし言葉を待つことなくフィアールカは鏡に手をかざす。
「じゃ、待っててね。隊長」
そう言い残して鏡面をコートの袖でぐいっと拭えば、そこに男の顔はもう映っていなかった。
困ったように眉尻を下げて小さく息を吐くと、鏡をコートに仕舞う。そうしてスキップでもするような軽い足取りでブーツの足音を鳴らし、彼女は大通りへと踊り出た。
