第一章 遠くを目指して/She doesn't know

「何だよ、手応えの欠片もねぇ。普通、一発で沈むかよ」
「寝起きでふらついてるところを殴ったら、誰だってそうだと思う」
 両手を打ち合わせて払い舌を打つルカーと、隣に佇む少女ロマーシカ。つまらないと呟く男に対し、淡々と少女が指摘したが、ルカーの放った拳が思ったよりも強かったことに関しては胸に仕舞っていた。彼の様子からして、これでも手加減した方なのだろうと理解したのだ。
 そんな彼女らが見下ろす足元に伏せているのは、二人の男だ。息はあるが、意識を失っている。ロマーシカの魔法で照らされ浮かぶ横顔は、ひどく間抜けな表情を浮かべている。
 彼らは、地下の入り口を見張るために配置されていた。地下に投獄(とうごく)された人物が、万が一にも脱出したとき――またはその人物を解放しようとする者が現れたとき、真っ先に主や仲間へ連絡するのが、彼らに与えられた任務だった。
 そんな彼らが倒れているのは、その地下に投獄されていた本人であるルカーに殴られたことが原因だ。起き抜けの纏まらない思考とふらついた体で、振り向いた瞬間に殴られれば流石にたまったものではなく、あっさりと倒れてしまった。
 仲間を呼ぶ暇もなく伏せてしまった彼らを見下ろし、靴の先で小突きながらルカーは静かにロマーシカへ問う。
「でもよぉ、なんでこいつらは……こんな所で寝てたんだ?」
 彼らが地下から出て来たとき、二人の見張りは既に腹這いになって気絶していたのだ。それが彼女らの足音に気付いて目覚めたのだ。
 けれど、こんな所で眠っていては見張りとしての仕事がこなせていないし、何より睡魔(すいま)に勝てず眠ってしまったというには、少しばかり不格好すぎる寝姿だったのがルカーは気がかりだった。まるで何かと対峙(たいじ)して押し潰されたかのような倒れ方をしていた、と彼は思う。
「……さあ、わたしは知らない」
 僅かに間を開けて、ロマーシカはルカーの問いを適当に流す。本当はどうして彼らが倒れているのかを彼女は知っていた。何故なら彼女――ロマーシカが原因なのだから。ルカーを連れ出すまでは邪魔が入らないようにと魔法を使ったのだけれど、それで彼らが思ったよりも長く眠っていただけだ。
 しかし、それを話す必要などない。そう判断し、知らないふりをした。追及されても面倒だ。
 転がったままの見張りから、視線を滑らせるように移動させて彼女は正面を向いた。
「それよりも、早く行こう。こんな場所に用はないから」
 廊下を見据え、佇むルカーに進むことを告げると、彼の脇を横切り少女は前に出る。
 こんな場所に長居する必要はない。そう考えたのはロマーシカだけではなく、ルカーも同様に思考し頷いた。歩く彼女の背を見ると、彼は見張りの男達を爪先で小突くのを止めて、その後ろに続く。
 照明の落とされた廊下に、二人分の足音が響く。こちら側の廊下に窓はなく、月明かりも入らない。先頭を歩く少女が灯す魔法の明かりだけを頼りにして、彼女らは進んでいた。
「――随分と広い屋敷だな」
 ルカーは首をぐるりと動かして辺りを見回しながら、何気なく呟く。
 二人が歩く廊下は、沢山の人間が行き交うことを想定されてか幅が広く作られている。それが遠くまで続いているのが見え、終わりがないようにすら思えてしまう。
「領主の屋敷だから、広くて当然だと思う。でも……あなたが来たときからずっと、ここは変わっていないはず」
 多少の手入れこそあっただろうが、その景色に大きな変化はないはずだ。それに彼の言い方だと、まるで彼はこの屋敷を初めて見たようではないか。そう思いながらもロマーシカは最低限を告げる。それにルカーは、わざとらしく溜息を吐いてロマーシカの後頭部を見下ろした。
「仕方ねぇだろ。外に居たはずが、目覚めればあの場所だったんだ」
「ああ。そういえば、そうだった」
 彼の話を聞くと、ロマーシカも納得したように短く相槌を打つ。
 ルカーは、気絶させられた状態でここに来たのだ。彼がどのようにして連れて来られたのか父親に語り聞かされたことがあったのを、彼の言葉を聞いて思い出す。
 そして一度閉じ込められてから、ルカーは今日に至るまで拘束を解かれたことはなかった。
 百年間。それが、彼が地下に居た期間だ。だから、屋敷の中を見て回ったこともなかったし、あの『木の檻』の上がこんな立派な屋敷だと思わなくても、当然と言える。
「にしても、てめぇはこの場所と、どういう関係があるんだよ」
 屋敷の中を迷うことなく歩けるならば、この場所とは何かしらの関係があるのだろう。けれど彼女は幼くて、どう見ても働いているようには思えない。そういったルカーの問いにロマーシカは少しだけ顔をしかめつつ、答えた。
「ここの家主、つまりシュリギーナ家の現当主は、一応……わたしの『ちちさま』になる」
 ほう、とルカーは声を漏らす。
 彼女の話が正しければ、このロマーシカという少女はこの屋敷の住人だということになる。確かに家主の娘であるなら、この屋敷を自由に歩けるのも理解ができる。
 しかし納得すると同時に、更なる疑問が浮上する。それは、気が付けば既(すで)に口から出ていた。
「んじゃあ、てめぇが屋敷を出たがる理由って何だ? ここなら贅沢(ぜいたく)な暮らしもできるだろ」
 ルカーはそういった『贅沢な生活』とは無縁(むえん)であったから、そういった暮らしの良さも分からない。けれど、人間が贅沢をしたがることぐらいは知っていた。故に、人間である彼女がそんな暮らしを捨てたがるというのが、彼には不思議だった。
 流石に、家を出れば今までの生活ともお別れすることになる、というのは彼女だって幼いなりに理解しているはずだろう。
 ちょっと嫌なことがあって衝動的(しょうどうてき)に家を出たくなった――というわけでもなさそうだ。彼女の、死んでいるかのように感情を出さない顔が、そう物語っている気がした。加えて、その程度の衝動でわざわざ地下に拘束された人物を解放するというのも納得できないところがある。
 一体何が、彼女に『逃げる』なんて言い方をさせる原因になっているのか。問う彼に、少女は歩みを止めることなく、ただ僅かに俯き黙り込む。
 そのまま進み続け、角を曲がり、まっすぐ進む。このまま黙って押し切るつもりかとルカーは考え眉根を寄せた。そうして答えを急かすように彼が口を開き――それに重ねるように、少女が声を発する。
「……それは、その」
 叱られて言い訳を探す子供のように口ごもる彼女へ、ルカーは怪訝(けげん)な面持ちで首を傾ける。彼の位置からだと彼女の顔は窺えないけれど、迷っていることは声だけでも十分に理解できた。
「それは、何だよ」
 ロマーシカの言葉を拾ってルカーが問うと、少女は再び口を噤(つぐ)む。その様子に、ルカーは不快さで顔を歪めた。彼のムッとした様子に気付くことなくロマーシカが進み続けるのが、彼をますます苛立たせる。
 不意に、ロマーシカが足を止めた。すぐそこの壁には厚い扉がはめられていて、少女は口を開くことなく扉に向き直る。
「……オイ、黙ってんじゃねえよ。手伝ってんだから、俺も事情を知る権利くらいはあるだろ」
 扉を見つめる少女は、未だ口を閉ざしたままだ。その姿に痺れを切らしたルカーが、いい加減に何か話せと声をかけ、少女の肩を掴もうと手を伸ばす。
「その話は、後にして」
 けれど、ルカーの手が少女に触れる寸前。扉を向いたまま、ようやく彼女は言葉を紡いだ。発された言葉を聞き、彼の手が止まる。そうして彼は訝しげに眉を寄せた。何故だと問えば、彼女は僅かばかり俯いて答えた。
「今は……ここを出る方が先だから」
 そんな話に時間を費やすときではない。それは本当の事だったけれど、できるならば話したくないというのも彼女の本音だった。寧ろ、行動の優先順位なんて答えない言い訳でしかない。
 彼の問いに対する答え……つまり、ロマーシカが屋敷を出たがる理由は、彼女にとっては気楽に話せるような内容ではない。複雑に事情が入り組んでいるわけではないが、どこから話せば良いかも分からない。
 簡潔に一言で纏めることはできたけれど、今まで少女が受けてきた仕打ちは、そんな風に軽く扱って良いものでもなかった。
 ロマーシカは俯いているため、背の高いルカーが彼女の表情を窺うことはできない。だけれど、もしもその顔を見たならば、今まで彼女が溜め込んだ苦しさや怒り、悲しみが混ざった複雑な感情がありありと伝わってしまったことだろう。
 声にすら、押し込めているつもりでも暗い感情が滲み出ていたのだ。顔だって先ほどまでの無表情が保たれているわけがなかった。
 もっとも、ルカーは他人のそういった思いなどあまり気にしていなかったけれど。
「ふーん、それもそうだな。じゃあ、ここから出たら聞かせろよ」
「……気が向いたら、そのうち」
 ロマーシカの台詞をそのまま受け取って、それ以上を追及することなくルカーは告げる。どこかつまらなそうに両手をロングパンツのポケットへ突っ込む彼へ、少女は少しだけ安堵を覚えながら曖昧な返事を返した。
「……出ねえのか」
「もう少し待って、今開けるから」
 佇み、じっと扉を見つめる少女に、ルカーが訝(いぶか)しげな視線を向けて問う。出るならさっさとここを出たい、なんて言っていたのはロマーシカの方だろうとルカーが言外に匂わせると彼女は少しだけ焦りながら、冷静に答えた。
「早くしろよ」
 彼の言葉に押されるように意を決して頷くと、ロマーシカは自身の手の平に魔力を込め、扉にかざした。性質の違う魔力同士が反発し合う僅かな抵抗を感じ取りながら、扉を撫でるようにして手を横に払う。
 ゆらり。少女の魔力に呼応して、扉の表面が揺らめいた。
 石を投じられた水面のように扉が波紋(はもん)を広げていく様は、ルカーにはとても不思議な光景に見えていた。波打つ扉を眺めていれば、やがて本来の姿が露わになる。
 迷彩の魔法がロマーシカによって解かれたことで浮かび上がったのは、扉一面に描かれた大きな魔法陣だ。二重の円をベースとして、中が複雑に描き込まれた魔法陣は、淡く光を放つことで今も稼働(かどう)していることを示している。
「何だ、これ? 確か、拘束具にも描かれてたよな」
 けれど、ロマーシカが真剣に見つめている魔法陣もルカーには複雑で不可解な模様にしか見えず、故にどういう意図で描かれているのかも理解できなかった。分かるのは、地下で彼を拘束していた枷にも似たような模様が描かれていたこと、その模様を消した途端に枷が外れたから魔法に関連するのだろう、ということくらいだ。
「なぁ。この模様って、何か意味があったりするのか?」
「……魔法陣も知らないの」
 かけられた問いに、ロマーシカがどこか呆れたような調子で呟く。ルカーはそれに眉を寄せて不快さを露わにするものの、彼女の話に対する興味の方が勝(まさ)り、すぐに表情を戻す。
「魔法陣? ってのは、魔法にどういった関係があるんだ?」
「術者……つまりわたし達の代わりに魔法を発動してくれるの」
 そう答えてロマーシカは息を吐く。魔法陣の構成を見ることで効果は大体理解できた。あとは扉にかけられた魔法を解いて、開けるだけ。そうすれば、念願の外に行くことができる。
 しかし、ロマーシカが手に再び魔力を流し込もうとしたその時だった。ルカーが我慢の限界だと言わんばかりに息を吐いて、彼女の後ろから手を伸ばす。視界に飛び出てくるその手に少女は目を見張った。彼が何をするつもりなのか、言われずとも理解できる。
「何の魔法がかけられてんのか知らねぇけど、開けねぇなら俺が開けるぞ」
「っ! 駄目、待っ――」
 ルカーを止めようと彼女が手を出したときには遅く。ロマーシカの声に反応して見下ろしながらも、彼は取っ手を掴み、思い切り扉を押し開けていた。
「……うぉ、寒いな」
 開かれた瞬間に、冷たい外気が建物の中へと入り込んでくる。ぶるりと身を震わせるほどの冷気に、ルカーが声を漏らす。扉の隙間から覗く外の景色を、ロマーシカは暫し呆然と立ち尽くして眺(なが)めていた。
 そんな彼女を見下ろして、ルカーはふと思い出す。それは、扉を開ける瞬間に彼女が言いかけた言葉だ。彼を止めるように伸ばされかけた手や駄目だと告げる声は、彼にはひどく不可解なものだった。
「なあ、何が駄目なんだよ。出るんじゃなかったのか」
「……もういい。じきに分かるから。どうせ解けなかった場合は結局こうなったわけだし」
 少女は緩く頭(かぶり)を振って、深い溜息と共に言葉を吐き出す。
 どこか不満げなロマーシカの言い方に、ルカーはわけが分からないと言うように「はぁ」と相槌を打つことしかできない。
 彼の愚鈍(ぐどん)さを感じさせる声に、自分がやったことを理解していないようだと知ると、少女は瞼を閉じた。一瞬だけ思考を巡らせて、ゆっくりと瞼を持ち上げる。それから緩慢(かんまん)な動作で斜(なな)め後ろに居る男を振り向き、口を開いた。
「ただ、よく分からない魔法のかけられた扉に、そんな不用意に触れるなんて信じられない」
 少女の唇から紡がれるのは、咎めるような言葉だ。
 先ほど「もういい」とか「どうせこうなっていた」と言いはしたけれど、やはり今のような行いは好ましいものではなかった。
 オレンジの瞳に真っ直ぐ見つめられ、ルカーはすっと目を逸らす。
「てめぇが信じられなかろうが、俺には関係ねぇよ。で、行くんだろ」
 関係ない、と言う顔は、どこかばつの悪そうなものだった。言うだけ言うと、ルカーは話を変えるように屋敷の外に顔を向けて示す。ロマーシカもまた、追及するでもなくルカーの視線の先を追いかけるように外を見て、首肯する。
「……そう、ね。行かなきゃ」
 こうなってしまったものは仕方ない。ロマーシカは一歩、屋敷の外へ足を踏み出す。
 扉の向こうに広がるのは、庭だ。地面には芝生が生え揃い、その上を白い石畳の小道が走っている。見渡せば四角く刈られた生垣が等間隔で並んでいた。
 何気なく見上げた空は暗く、ちらつく雪の白がよく映える。しかし不思議なことに、降り注ぐ雪は何かに阻まれているかのように上空で消える。少しでも寒さをしのぐために作られた結界魔法のおかげだ。
 ひんやりと冷えきった庭に出ると、辺りを窺いながら二人は外に繋がる小道を進む。
 ロマーシカにとっては目新しさのない庭だったが、こういった夜中に出ることはないため、少しだけ新鮮には思えていた。
 けれどルカーは、見たことのない庭に興味を抱くこともなく、ただ不快に顔をしかめていた。
 彼がふと立ち止まり、いい加減に我慢ならないと声を出す。
「なあ……おい、ロマーシカ・アイラトヴナ」
「何、ルカー・ニキートヴィチ」
 名を呼ばれると少女はワンテンポ遅れて立ち止まり、首だけでルカーを振り返る。
 無表情の中に僅かな不快を込めつつ何だと問う彼女を見て、ルカーがますます苛立ちを露わにする。何故分からないのだと言って、ルカーは再び辺りを軽く見回すと、ロマーシカに視線を戻した。
「さっきからジロジロと、あちこちから見られてやがるじゃねぇか。あいつらは何なんだ」
 威嚇(いかく)するように声を低くした彼の言葉を聞いて、少女は庭をぐるりと見た。そして「ああ」と漏らし頷くことで納得の色を見せる。けれど状況を把握できたのはロマーシカだけで、ルカーはどういうことなのか全く理解できずにいて、顔に浮かべる不快さを更に濃くした。
 彼の言う通り、庭のあちこちから二人に向けて複数の視線が飛んできている。あまり人の気配に敏感でないロマーシカですら分かるほどに。
 それも友好的なものではなく、少女らの出方を窺う目だ。ちくちくと刺さるような、どう取っても気持ちの良いものではない。
「さっさと出てきて。門出(かどで)を見送ってくれる……ってわけじゃないんでしょう?」
 淡い金髪を翻(ひるがえ)して振り返ると、再び周囲を見回し告げる。出てくる気配のない彼らに聞こえるように、いつもより少し声を大きくして。
 唐突に声をあげた少女にルカーは目を瞬いた。何かを言おうと口を開き、けれどその声が形になる前に飲み込まれてしまう。草木の擦れ合う小さな物音が聞こえたからだ。小さいとは言っても、静かな庭では大きすぎるほどの音量だった。
 風が吹いた、というわけではない。
 がさり。そんな物音を連れて現れたのは、三人の男だった。同じデザインの黒衣で身を固め、顔は下半分を黒いマスクに隠している。彼らは突然に飛び出て、いつの間にかロマーシカ達を中心に三角形を構成するようにして取り囲んでいた。
「何だよ、こいつら」
 黒ずくめの男達を見たルカーが警戒に顔を険しくする。
 彼らが視線の正体であると気付くのにそう時間はかからなかったが、それが分かったところで男達の目的を知るには繋がらない。
 ロマーシカは彼らを見比べながら、ルカーの呟きに答えるように声を発した。
「さっき、あなたを止めた理由はじきに分かる……って言ったのは、覚えている?」
「……ああ。それがどうした」
 ルカーの答えは肯定だった。けれど、彼女の言う台詞――つまり彼が止められた理由と三人に見られていたことの関係性もルカーにはやはり理解できず、彼は更なる問いで返す。ロマーシカの口から、呆れたような溜息が零れた。
「簡単に説明すると、あの扉に描かれていたのは防犯目的の魔法陣だったの。許可を得ていない人物が出入りすると、守衛達に警報が届くようになっていたの」
 許可されていない人物として例を挙げるなら、この屋敷に捕らえられていた犯罪者や、書類で繋がっただけの家主の家族だとか。そう付け足した少女の顔は彫刻(ちょうこく)のような無表情を湛(たた)えていたけれど、オレンジの双眸には深い悲しみの色が宿っていた。
 ロマーシカは名前こそ出さなかったけれど、その口ぶりだけでルカーは彼女も『書類だけの家族』として許可をされていなかった人物らしいと判断し、納得に首を縦に振る。
「……つまり、俺みたいな奴らが対象ってわけか」
「そう。なのにあなたが魔法も解除せずに開けてしまったから、こうして見つかってしまったの。わたしが必死に逃げたところで、彼らにはすぐに捕まってしまう」
「ほぉ……逃げても捕まるんなら、どうするんだよ」
 問う声は、好奇心に満ちていた。何故なら、彼女は突破口を知っている――それに気付いていたからだ。
 ロマーシカが逃げられないと言うなら、ルカーは一人で逃げてしまっても構わなかった。彼女が逃げるための手伝いをするとは言ったが、所詮は口だけの約束だ。だから、さっさと見捨てることもできた。
 だけれど、彼女は紡ぐ言葉とは反対に毅然(きぜん)とした態度で立っている。その姿はどうにも諦めているようには見えないし、実際に彼女は諦めていなかった。
 ロマーシカは逃げる方法に見当がついている。そして言葉にはせずとも、ルカーはそれを理解していた。
「わたしは最初に、あなたの役目を言ったはず」
 答えは至極簡単なものだ。彼のやることは一つだけで、増えも変わりもしていない。
 彼女の一言を聞いたルカーが悪辣に笑う。
 その顔を見た三人は、おそらく武器を仕舞っているのだろう腰や懐に手を伸ばした。
「一度だけ聞かせて。わたし達を、通してくれる気はある?」
 ロマーシカが不意に尋ねる。答えは分かりきっていたのだけれど、あえて問う。彼らが頷いてくれるかもしれない、僅かな可能性に賭けて。
 動く気配のなかった彼らがお互いに顔を見て頷き合う。そうして一人がロマーシカ達に向き直り、首を横に振った。おそらく彼が守衛達のリーダー格なのだろう。
「いいえ。申し訳ありませんが、そこの不審な男も、ロマーシカ・アイラトヴナ様も、我々は出すことを許されておりません」
 思ったよりも丁寧な口調で話す彼らに、少女は僅かな驚きを覚えていた。
 けれど、一応は家主の娘であるから当然と言えば当然か……とすぐに納得してしまう。俯く彼女に、守衛は言葉を続ける。
「今すぐにその男を引き渡して屋敷に戻ってくだされば、我々は手出しができません。ですが、従ってくださらない場合、我々は武力を持ってでも止めなければいけません」
 語る守衛の目は、どこか懇願するようなものだった。幼い少女に手荒な手段を使いたくないという意思が見えるようだ。けれど、それだけ。少女の願いを聞き入れる姿勢はない。それを理解するとロマーシカは肩を落とし、頷いた。
「――そう、分かった」
「では……」
 少女が頷いた途端、守衛が喜色を露わにする。
 しかし、その表情はすぐに崩れ去ることになった。
「ええ。通してくれないなら、力づくで通らせてもらう。だから、多少の怪我は覚悟して」
 ロマーシカは、守衛らに従うつもりなど微塵(みじん)もなかった。
 できるなら人が傷つくところは見たくないけれど、だからといって絶対に避けたいわけでもない。彼らが通してくれないと言うのであれば、彼女は力を行使することも厭わない。
 彼女の台詞を聞いた守衛達はひどく驚いたように目を見開いた。
 何を言われたか分からないとばかりに硬直する彼らから視線を逸らし、少女は斜め後ろに佇む男を見る。そうして、静かに語りかけた。
「ルカー・ニキートヴィチ。殺しはしないで」
「ああ、分かってるよ。退かせるだけでいいんだろ」
 今度の声には、喜びが滲んでいる。
 地下を出て最初に出会った見張り達は一発殴っただけで倒れてしまったが、今度の相手である黒ずくめ達は先ほどの台詞からして戦闘にも慣れているらしい。ならば少しくらい遊んでも問題ないだろう……なんて、ルカーは期待していた。
 流石に長い時間はできないだろうけれど久しぶりの運動に気持ちが昂(たかぶ)るのを抑えられない。
「それでいいの。さっさと終わらせて」
 まだ戦ってもいないのに既に楽しげな彼へ、とても冷めた声でロマーシカが告げる。それを聞いた守衛達が正気付いて身構えるのを愉快(ゆかい)そうに眺めながら、ルカーは散歩でもするような足取りで、悠々(ゆうゆう)と歩きだした。少女の隣に並び、一言返す。
「言われなくても」
 答えるや否や、ルカーが動いた。
 最初に狙うのは、先ほどロマーシカと短い会話を交わした人物だ。
 拳を限界まで引き絞りながら駆け、体がぶつかりそうなギリギリの距離まで近付き、顔をめがけて叩き込む。
 ほんの一度、瞬きをするほどの間でしかなかった。
 けれど、その拳は咄嗟の判断で受け止められる。守衛が顔の前で腕を交差させてガードしたのだ。それでも、長い拘束期間(ブランク)があるとは思えぬほどの膂力(りょりょく)には抗えず、吹き飛ばされてしまったが。
 呻きをあげた男が派手に突っ込んでいく先は、ロマーシカの居る方向だ。ぶつかりこそしない程度に離れていたが、それでもすぐ横を通れば危機感の一つも覚えるし、ロマーシカは僅かに眉を寄せた。
「危ない……」
「ああ、悪ぃ悪ぃ。周りを見ながらってのは得意じゃねぇから、適当に気を付けてくれや」
 具合を確かめるように己の拳を見下ろすルカーの目には、守衛が飛んでいく様も少女の咎めるような顔も映っていない。かけられた声には振り向くことなく、ひらりと手を振りながら答えるのみだ。悪びれもしない呑気な彼にロマーシカが溜息を吐く。
 と、不意に細身の影がルカーに被さる。明かりと呼べるものがないせいで、微かに落ちる程度の影だ。
 それでも彼はすぐに気付いて、勢いよく振り返る。同時に、鈍い銀色が一閃。
 首を狙って振るわれた斬撃は、ナイフを握った方の手首に片腕を当てることで簡単に無効化されてしまう。直後、ルカーが相手の鳩尾(みぞおち)に膝を強く打ち込んだ。鍛え上げられた脚を腹に受けた彼もまた、音を立てて地面に崩れ落ちる。
 その頭を踏みつけたり蹴り上げたりと弄ぶ彼の元へ、別のナイフが迫る。転がった男を蹴飛ばして退かすと、突き出される刃物を屈んで躱し、ルカーは懐に潜り込む。的がずれたせいで踏鞴(たたら)を踏んだ相手の顎へ、思い切り拳を打ち上げる。
 直撃に脳が揺れ、ぐらりと身が傾くその守衛に、片脚を軸にした回し蹴りを放つ。踏ん張りの効かない彼には十分な衝撃なようで、軽く吹き飛んだ。ボールのように地面をバウンドして転がり、倒れ伏す。
「んだよ、こんなもんか? クソつまんねぇな。準備運動にすらならねぇじゃねぇか」
 地面に転がった三人を睥睨(へいげい)して、ルカーが毒づいた。そこに先ほどの笑みはもうない。
 ルカーは決して、彼らを蹂躙(じゅうりん)したいわけではなかった。しようと思えばいくらでもできたのだけれど、彼は幽閉されたせいで鈍ってしまった体の調子を軽い運動で戻せれば十分だった。なのに、それの相手すらできないほどに彼らは――弱い。
 圧倒的な優位性を感じたかっただけならそれで良かっただろう。しかし今はそうではない。
 全く期待外れが過ぎる。
 深く、深く溜息を吐いて、ルカーは少女を振り返った。複数人が一人の暴力により倒れたというのに、顔色一つ変えず佇む彼女を視界に収めると、ルカーはますます退屈げな顔をする。
「はぁ、興醒(きょうざ)めだわ……おい、ロマーシカ・アイラトヴナ。さっさと行くぞ」
「そうね……退けることはできたから、行こう。ルカー・ニキートヴィチ」
 頷き、少女が一歩踏み出す。が、文字通り一歩足を出しただけですぐに止まった。何かが動いたような衣擦れの音が聞こえたからだ。
 二人が音のした方向を見てみれば、そこに居たのは地面に這いつくばった守衛の一人だった。確か、ルカーが一番に殴り飛ばした人物だったか。
「っ、ぐぅ……待て……!」
 打ち付けられた体が痛むのだろう、マスクに覆われていない顔の上半分は歪みきって、発する声も苦しさに掠(かす)れていた。ルカーには手加減をしたつもりでも、彼らにとっては動くのもやっとになるくらいの力だったことがありありと見て取れる。
 傷付いたその身に鞭(むち)を打ち、ふらりと幽鬼(ゆうき)のように立ち上がる。そうして守衛は、一度少女を見遣ると、その近くに佇む男を強く睨み付けた。
「んだよ、まだやるつもりか?」
「貴様……今、何と呼ばれた」
 ポケットに両手を突っ込んで、にんまりと笑いながらルカーは尋ねる。傷付いても尚立ち上がる根性への感心、そしてボロついた体でどうするのかという期待に口角は自然と持ち上がっていた。
 相好を崩した彼の問いに、けれど守衛は期待をした返事をしてくれない。それどころか答えになっていない問いを出してくるものだから、ついルカーは目を丸くしてしまった。
「何って……どうしてそんなもん聞くんだよ」
「いいから答えろ」
 息も絶え絶え、肩を上下させながら、それでも目を逸らすことなくルカーを視界に捉えたままに、守衛は答えを急かす。ルカーにはその問いの意味が全くもって分からなかったけれど、答えない理由も特に思いつかず、舌を打っては頭を掻(か)いて、深い溜息の後に答えた。
「ルカー・ニキートヴィチ。それがどうかしたのかよ」
 彼が名乗った途端、守衛は「まさか」と言わんばかりに目を見開いて、それから苦虫を嚙(か)み潰(つぶ)したように顔を歪めた。まるでその名に聞き覚えがあるかのような反応に、ルカーは表情を険しくしながら首を傾ける。自身の名にどんな問題があるのか、彼には理解できない。
 守衛は悩ましげにぎゅっと目を瞑り、やがてロマーシカへと視線を移した。
「彼が本当に『そう』なのであれば……ロマーシカ・アイラトヴナ様は、再びあの惨劇(さんげき)を起こされるおつもりなのですか? それに、貴女様も出て行かれる予定だったのでしょう? 屋敷に住んでいれば不自由はないでしょうに、何故……」
 問う彼の目は、咎めるというよりは悲しみと困惑に満ちたものだった。
 一度伸された時点で勝てないと理解したのか、先ほどまでの戦意は感じられない。けれど少女の答えによっては止めなければならない、という確固たる意思だけは宿っていた。
 名前を出された側であるルカーは、まるで自身の名や素性を疑うような台詞に「どういうことだ」と口を開きかけて止める。二人の会話が気になったからだ。
 そんな彼の様子をちらりと一瞥して、ロマーシカは一度目を伏せた。それから小さく溜息を吐く。白く渦巻いた息が昇って消えると、やがて彼女は守衛を見た。
「あなたもルカー・ニキートヴィチと同じことを聞く。屋敷から出る理由なんて、簡単なこと。嫌だから出たいだけ。なのに……こうでもしなきゃ、わたしはここを出ることも叶わない」
 彼女は紙面に綴られた文字列でしかあの事件を知らないし、このルカー・ニキートヴィチという男のこともよくは知らない。けれどあの事件を繰り返すつもりは毛頭なかった。ただ、彼女は屋敷を出てしまいたかっただけだ。
 それを聞いた守衛は、屋敷に留守番させられることを拗ねる子供の言葉だとでも受け取ったのか、眉間に皺(しわ)を作り上げた。
「子供が勝手に出て行けば誰だって心配します。それが分からないはずがないでしょう」
「心配だから閉じ込める? ちちさまはそんな人間じゃない。それがどうして分からないの」
 叱(しか)るような守衛の言葉に対しロマーシカは人形のような顔で、ただオレンジの瞳にだけは確かな怒りを孕(はら)ませて告げた。
 雇い主であるここの家主――ロマーシカの父の性格を守衛である彼らはほとんど知らず、少女の言葉を否定することはできなかった。そのため、一度はぐっと言葉に詰まる。が、ルカーを連れ出してしまった彼女を、止めないわけにはいかない。
 引きそうになった顎を必死に抑え、少女から視線を離さぬようにしながら彼は返す。
「それでも、親や家が嫌だという理由だけであのルカー・ニキートヴィチを解放するなど、許されることではありません。どうか……」
「許されないとか、そんなことはどうでもいいの。この屋敷に住む誰もがわたしを助けなくて、わたしがここから出るには彼を使うのが一番手っ取り早いことに変わりはない」
 どうか考え直して、そう言いかけた守衛を遮って、ロマーシカが言い放つ。この後どんな事が起きようと自身には関係がない、と。そして自分の願いを叶えるためだけに彼を連れ出したのだと。それが許されざる行為だろうと構わない。誰に許されなかろうが彼女には関係がない。
「ルカー・ニキートヴィチ。ほんの少しの間、眠らせてあげて。殺さないように」
 一言、そう言い切った彼女の瞳は、宝石のような冷ややかさを感じさせるものになっていた。それから興味がなくなったと言わんばかりに目を伏せる彼女に、ルカーは気怠げな返事をして、守衛を向いた。
 どうして、とでも言いたげに瞳を揺らしながら身構える守衛に、彼は一歩踏み出たかと思えば、一気に距離を詰める。気付けば、鳩尾に拳を叩き込み気絶させていた。
「これで良いのか」
「ありがとう。流石にこれ以上邪魔されるのも会話を続けるのも面倒だったから」
 ゆっくりと目を開けて、少女はこくりと頷く。
 面倒だから、なんて言っていたけれど、本当はそれ以外の理由もあった。起きていられるだけの元気があるのに逃がしてしまったなんてバレたら、彼はきっと重い罰を受けただろうと心配して、気絶させたのだ。
 けれどそれを語る必要はないし、語るつもりもなく、ロマーシカは「行こう」と告げて、歩き出した。ルカーも短く返し、それを追いかける。急ぐ少女の小さな歩幅に合わせて、ゆっくりと歩いた。
 違和感に歪む彼の眉は、ロマーシカには見えていない。

   1

「そういえば……ルカー・ニキートヴィチは、これからどうするの」
 ふと少女が問いかけるのは、列車に揺られ始めてから二十分が経過したときのことだった。
 まだ日も昇っていない時間であるため、レール上を駆ける魔動機関車の中はがらんと空いている。他に誰も居ない車両で、二人は入口からほど近い席に並んで腰を下ろしていた。
 少女の甘い声が耳に届くと、ルカーは窓を見ていた目を隣へと向けた。少女のシトリンを思わせる瞳と視線がかち合う。
「なぁ、ずっと思ってたんだが……その『ルカー・ニキートヴィチ』って呼び方、止めねぇか」
 ロマーシカの曖昧な問いを受けて返す彼の言葉は、問いの意味を尋ねるものでも、回答でもなく、最初からここに至るまで少女が使い続けている彼の呼び方についての意見だった。
 突然の言葉に、ロマーシカは目をぱちくりと一度瞬いて首を傾げる。突然どういうことだと言わんばかりの視線を受けてルカーは溜息混じりに吐き出した。
「てめぇの態度と堅苦しい呼び方がチグハグで合わねぇし、それによそよそしくて気持ち悪ぃ」
「でも、さっきはそんなこと言わなかった」
 腕を組む彼の台詞を聞き、少女は考え込むように視線を落とした。確かに彼の言い分は理解できるし、嫌と言うならば止めようと思える。けれど、先ほどまでそんなことを思っているようには見えなかったから、ついついロマーシカは尋ねてしまった。
 すぐさまぎゅっと眉間に皺を寄せてルカーは再び少女に顔を向けた。
「さっきまでそんな話ができる雰囲気じゃなかっただろうが」
 屋敷に居るときは急いで出ることに集中していたし、敷地を出て街まで下りても、会話を挟む余裕もなく早足で駅へ向かっていた。
 こうやって列車に乗り少し休憩して、ようやく会話できるだけの余裕が生まれたのだ。
「そうね、ごめんなさい。けど……それなら、どう呼べばいいの?」
「ルカーでいい、ルカーで。とっくに消えた親父の名まで懇切丁寧に呼ばれるの、マジでむず痒いんだよ」
 呼び名を問われれば、彼はふいっと顔を逸らし答えた。むすくれた横顔はどこか子供っぽく見えて、何となく、彼は何歳なのだろう……と、ロマーシカは思ってしまった。それは胸中に仕舞いこんで、口に出すことはしなかったけれど。
 代わりに少し遅れて頷き、彼女は理解を示す。
「分かった。それじゃあ、ルカー。もう一度聞くけど、あなたはこれからどうするつもりなの」
「どうって、何をだよ」
 呼び方という引っかかりもなくなれば、今度は彼女の台詞がきちんと入ってくる。けれどルカーには「どうする」という言葉が何について指しているのか、具体的には理解できない。
 窓を見るのにも飽きたのか正面に広がる車内を眺めながらルカーは問いの意味を逆に問う。
「わたしは屋敷から無事に逃げられたでしょう? つまりあなたは自由の身になったの。だから好きに行動をすればいいのに、ついて来るから。どうするつもりなのかって」
「考えてねぇよ。突然放りだされたところで行く所なんてねぇからてめぇと一緒に居るわけだ。賢そうな顔してそんなことも分かんねぇのか、ロマーシカ・アイラトヴナ」
 確かにルカーは長い間、地下に閉じ込められていたのだ。行く場所もなければ知っている者も居ないだろう。それもそうだ、と納得しながら溜息を吐いた。俯き気味の横顔に宵闇の瞳が向けられる。
「つーか、それを言うんだったらてめぇはどうなんだよ。どこに行くか考えてんのか」
「……いえ、特には」
 僅かな間を開けてから、緩やかに首を振って否定する。彼女は計画など全くもって立てていない。ただ逃げ出したくてそうしただけで、その後のことなど考えてすらいなかった。
「特には……って、まさか、てめぇ何も考えてねぇのか」
「とある場所を除いて、屋敷から離れた場所なんて……行ったことがないもの」
 少女の答えが意外だったのか思ったより声を大きくしてしまうルカーに、少女はふいっと目を逸らす。言い訳のように告げる彼女だったが、だんだんと口ごもっていく辺り、彼女も少しはまずいことだと思っているのだろう。
「とある場所……?」
 けれど彼が反応したのは少女の言う『とある場所』という言葉だ。復唱し尋ねる彼に、少女は俯いたままの顔を僅かに上下へ振って頷いた。
「そう。わたし、あの屋敷に来る前は別の所に住んでいたから。そこ以外に、屋敷から距離のあるところには行ったことがない」
 屋敷に来る前、かつて生活していた場所を除けば、彼女はそれほど遠い場所に行ったことがない。隣町どころか一駅先にすら。駅の場所を知っていたのも、かつて住んでいた場所から移動するときに魔動機関車を使ったこと、それからたまに地図を見て町並みに思いを馳せることがあったからだ。
「へぇ……にしても、そんな箱入りのお嬢様が考えなしに飛び出すなんてな。俺に突然『お願いがある』なんて言ったときにも無謀な奴だとは思ったけどよぉ」
 彼だって、流石に根も葉もある自身の悪い噂のことくらい知っている。かつてどのように言われてきたか、詳しくは知らなくとも大体は理解しているのだ。そして少女もまた彼のことを知っているはずなのに、怯えるでもなく出会ってすぐに要求をするというのが、良く言えば肝が据わっているけれど、悪く言えば無謀だ。
「仕方ないでしょう。他に手伝ってくれる誰かなんて居ないんだから」
 つまらないほどの無表情で、けれど声には僅かな感情を込めて少女は短く返した。
 それに何を言うでもなく、ふん、と鼻を鳴らしてルカーは再び車内をぐるりと見回すと再びロマーシカの横顔に視線を向ける。
「そういやこいつ……何だ、えーと、動くでけぇ箱。これはどこに向かってんだ」
 親指で車内を指差して問う彼に、ロマーシカは顔を上げ、先ほどの彼と同じように中を見回した。それから向かい側の壁にある一点を見て「そうね」と小さく漏らす。
「今は北のズヴェズタスク市を走っていて、終点である南隣のゲオルゴルスク市に向かっているの。まぁ、そこに着くまでは半日以上はかかると思うけど」
 停車駅の一覧が貼られたそこを眺めながら少女が話す。
 見たことのある地名を見れば、大体の所要時間は少女にも分かる。来ていた列車に適当に乗ったのだが、南下するのであれば丁度良い。
「半日だぁ? この速さでそんなにかかるのかよ」
「ここは特に国の中でも端の町だから、隣の市まで行くにも時間がかかるの」
 語られた時間を聞いて大袈裟に目を丸くするルカーへ、ロマーシカは自身の顎を引き寄せることで肯定する。ロマーシカはあまり地理について詳しくはないが、住んでいた場所のおおよその位置くらいは知っている。
 彼女が言うには、大陸の北に位置するこの国『レオニクス』は広く、一つの町を回るだけでも馬車で数時間はかかる、ということだった。
 それに加えて今は町が集まっているところを走っているけれど、そこを抜ければ暫くは何もない退屈な道が続くらしい。
「これでも昔より移動速度は上がったらしい。前は馬車しか移動手段がなかったみたいだから」
 昔は誰もが馬車で町どころか市を行き来していたようだが、それだけの距離を馬で移動するのは時間もコストもかかりすぎる。故に最近は、ここ数十年で新しく開発された魔動機関車を使う者が増えたとか。
 そんな少女の話にはそこまで興味が引かれなかったのか、ルカーは曖昧な相槌を打ちながら何気なく窓を見た。雪の白で染まった景色が後ろへと流れて行く。
「それで、てめぇが言う南の……なんて言ったか。その市に行くのか?」
「いえ。隣の市へ行くのは良いけど、半日も列車に乗っているのは疲れるから……どこかで降りる予定」
 父や、それが住む屋敷から離れられるのならどこだって良い、というのが彼女の思いだ。だから彼が収めるいくつかの町を通り過ぎて、別の市に行くのも良いかもしれないとは考えるけれど、やはりずっと座りっぱなしはつらいものがある。
 語りながら少女は口元に手を運ぶと、口をめいっぱい開けて欠伸を漏らす。
「ふーん。じゃあ、どこら辺で降りるんだよ」
「んん……どこにするかは考えていない。明るくなった頃に、とは思ってるけど」
「やっぱり無計画なんだな」
 普段はベッドで眠っている時間だからか、だんだんと眠気が存在を主張し始めるのを感じながら、少女はルカーを見た。ゆったりとまばたきを繰り返す視界に映る彼は、少女の言葉に反応こそするけど彼女自身を見ない。
 窓の方を注視する彼を眺めている間にも、睡魔がそっと彼女の瞼を落としにかかる。
「……んお、何だよ」
 そう彼が声をあげたときには、既に彼女は眠りについていた。
 声をあげた原因は、ルカーの腕に微かな重みを感じたからだ。そちらを見れば、腕に凭れるようにして少女が頭を預けている。
 それに彼は眉を寄せた。何故こんなタイミングで眠れるのだとか、話は終わっていないだとか思うことは色々あった。頬でも突いたり肩を揺さぶったりして起こそうかとすら彼は考えた。
 けれどゆるりと向けられた寝顔に、溜息を零すのみで留める。起きたら何か言うのは確実だけれど、それまではとりあえず寝かせてやろうと、柄にもなく思ったのだ。
 伏せられた瞼を縁どる長い睫毛や、切り揃えられた前髪の間から覗く整った眉が少女の美しい顔を引き立てていた。こうして何も言わずにいると彼女の人形らしさが際立つようだ。呼吸で僅かに上下する胸がなければ、感情の乏しい顔のせいで本当に人形と見間違えるほどに。
 そこから視線を外すと、ルカーは屋敷から出て初めて訪れた退屈な時間をどう過ごそうか悩み始めた。
 眠れるならば良かったのだけれど、生憎と彼は昼に眠る……夜行性の人外だった。
 仄かに青を帯び始める遠くの空を、白く染まったすぐそこの町並みを眺めて、ルカーは窓枠に肘をつく。



   1

「んん……何、もう。やっと眠れそうだったのに」
 体を無理矢理揺さぶられる感覚に、少女は伏せた瞼を億劫そうに持ち上げる。
 揺さぶってきた存在を責めるように細めた目で見上げれば、そこに居るのは可愛らしい顔立ちをした緑髪の女性だった。見慣れたその顔を確認すると、少女はすぐに体を起こす。
 目の前の女性がわざわざ彼女を起こすときは、決まって何かが起きていることを彼女は知っていた。
「何かあったの? シルヴァ姉」
 先までの眠たげな空気はどこかへ吹き飛び、表情を引き締める少女。それを見て女性は緑の双眸を細めた。微笑みと共に小屋の出口を振り向き、手を差し出すようにして示す。
「どうやら、お仕事の依頼があったようです。隊長さんが呼んでいますよぉ」
 女のゆったりとした穏やかな口調に少女の強張った顔が緩みかけるも、話の内容を反芻してすぐに戻った。
 少女の外見はまだ見習いにもならないような幼いもので、仕事という言葉はあまりに相応しくない。だというのに彼女は慣れたように頷いてベッドから降りると、女性と共に出口へと向かって行った。
 小屋を出れば、まだ暗い外ではまだ火が焚かれていた。少女の仕事仲間の一人が、得意な風の魔法で火が絶えないようにしてくれているのだ。そして見慣れた面々が火を取り囲むようにして腰を下ろしていた。
 それぞれ丸太に座っているのが、筋骨隆々な壮年の男と金髪の若い青年の二人。火の近くでは鳥のような翼と下半身を持つ異形の女が大きな体を地面に預けている。その三人ともが、近付いた二人に気付き視線を向けた。
「ああ、来たか。起こして悪いな。シルヴァもありがとう」
「んーん、気にしないで、隊長」
 鍛え上げられた巨体の男が困ったように笑いながら言葉をかければ、二人も微笑みと共に各々の言葉で気にしていないと返す。それから少女が隊長と呼んだ男の隣に、シルヴァと呼ばれた女が青年の隣に腰かけた。
 全員が座ったのを確認すると、隊長――アンドロスは、咳払いの後に本題を切り出す。
「まず、今回の仕事は……」
 現在彼らが拠点にしているのは、国の中でも北の方に位置する山のふもとだ。そこから近い場所に町がいくつか存在している。それらの町を治める男爵が彼らの雇い主であり、今回の仕事を依頼した人物だ。
 仕事をこなせば金銭を受け取るという契約で、彼らは定期的にその男爵が治める領土で依頼を受けている。国に頼むにはあまりに些細ではあるが男爵らでは手を付けられないような仕事を紹介されてこなすことが多く、今回の仕事もそれだった。
 ほう、と青年が相槌を打つ。自身の金髪を指に絡めて弄ぶ彼をちらりと見ながら、アンドロスは話を続けた。
「仕事の詳細だが、雇い主のご息女が攫われたらしい。連れ出されるところを守衛が止めようとしたが、手も足も出ず……とのことだ」
「へえ……それじゃあ娘さんと誘拐犯を見つけて捕まえればいいってことか、隊長」
 アンドロスの語りに、青年が軽い調子で問いかけた。淡い笑みを浮かべている彼に、アンドロスは静かに頷いて肯定する。
「ああ、その通りだ。ただ守衛が倒されたということもあって、誘拐犯は戦い慣れていると推測される。つまり、戦闘になる可能性もある」
「それは誰が行くんだ、隊長。警戒されないように、数は少ない方が良いだろう?」
 次に声をあげたのは、鳥の翼と下半身を持つ異形――ハーピーの女だった。彼女が問いかけた内容は、口には出さないものの皆が気にしていたものだったらしく、ちらりと彼女を見た後、全員の視線がアンドロスに集まる。
「そうだな。それは既に決めているんだ。なあ……」
 隣に座る少女の名を呼びながら、その肩に大きな手が触れる。選ばれたのは彼女だった。
 事前に戦闘があると聞いていても彼女は特に驚いたり嫌がったりする様子は見せず、軽い調子で頷いた。
「あいつとシルヴァ姉が戦えないのは知ってるからね。けど、隊長やアネモネ姉でも良いと思うんだけど……」
 青年――フラヴィオや、緑髪の女性シルヴァがこういった仕事に選ばれないのは常だ。
 フラヴィオは能力を生かしての偵察や諜報などを担当している分、戦闘力は高くないし、シルヴァも怪我人の治癒などを専門としており戦いはからっきし。
 故に普段は、風を操るハーピーのアネモネや、物理的な力が強い巨人族のアンドロス、そして最近まともに戦闘ができるようになってきた彼女がこういった仕事を受けるようになっているのだ。
 しかし、アンドロスは少女を心配してか、出会って百年も経つというのに滅多に一人で行かせることがないことを彼女は知っていたから、少しだけ疑問にも思っていた。
「俺やアネモネじゃ警戒されて近付けないだろう。何だ、その……目標へ自然に接触するなんてのは、どっちも得意じゃないからな」
 アンドロスの語りに、納得したように皆が頷いた。
 彼もアネモネも、あまり話すのが上手ではないのだ。できないとは言わないが、勘の良い人物だと目的に気付かれることは多い。
 今までは幸運なことにその人物を何とか捕まえて解決できたが、今回は目標を倒せば終わりではない。攫われた娘も救出、保護せねばならないのだ。下手に対象を刺激して娘が怪我でもしようものなら、報酬が貰えなくなる可能性もある。
「ご息女を無事に保護するには、警戒されずに目標に近付けるお前が適任だと思ったんだ」
 勿論、途中で問題が発生すれば気にせず俺らを呼べばいい。
 そう言ってアンドロスが目元を緩めるのを見て、少女もつられて微笑む。
「それで、目標の位置は分かってるの?」
「攫われたご息女と目標は屋敷の最寄り駅で魔動機関車に乗ったようだ」
 一定の範囲内に居る者を探せる魔法がある。
 主に自身の領地に居る要注意人物を探し出す目的で、領主がたまに使う魔法だ。領主達はそれぞれの領地を覆うように簡易的な結界を張って境界を作るため、自身と対象の居る領地が違えばその魔法は使えなくなってしまうのだけれど。
 その魔法を使用することで、ご息女が列車に乗ったところを雇い主は見たらしい。
「まだそれほど離れてはいないようだが、なるべく早く追いかけた方が良いだろう」
 魔動機関車は速い。そして、まだ暗い時間だがあと数時間もすれば夜は明ける。人々が活動する時間に離れた町に紛れられれば、発見は困難になる。故に、早急に追いつかねばならない。
 それらを伝えると、アンドロスは快活に笑う。
「まぁ、捜索用の魔法具も借りてきた。お前ならやれるさ」
 頷き、つられて笑う少女の背をアンドロスは指先で優しく二度叩く。
 その後は更に詳細な話をして、出発の準備をして。全てが整えば、少女は仲間に見送られて旅だった。

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