重い
「|万物を作り上げし至上の魔力よ(トナース オレヴ バノス プレフェスク ヴィスケ)」
少女の薄い唇が微かに動いたのを、巨人族の男、アンドロスは見逃さなかった。そして彼女が紡いだ言葉が、魔法を行使するための詠唱であるというのにもすぐに気付いた。
詠唱とは様々な用途に使われるが、その中で最も多い使用用途は魔力操作の補助だ。
より正確に言うのであれば、魔力を操るのが苦手な者が、魔法を扱う際のイメージを鮮明に、詳細に描くための暗示のようなもの。
アンドロスは、詠唱をする彼女、ロマーシカが幼いこともあり、彼女がそれほどの脅威ではないと判断を下す。そしてロマーシカから、その斜め前に立つ青年ルカーへと視線を移した。
「|我は汝が内に(メー イルド ネー エントス)、|汝は我が内に(ネー イルド メー エントス)」
微かな声が詠唱を続ける。
ロマーシカへの警戒は残しつつも、一番の脅威はルカーだと彼は思っていた。仲間から聞いた話も判断材料の一つだが、何より纏う雰囲気が他とは違うのだ。
最悪の場合は背中に背負った相棒、巨大な戦斧を使うことも視野に入れながら、アンドロスはルカーの顔を睨み付けた。仮にも戦いを生業とする男を歯牙にもかけない彼の態度が不愉快でたまらない。
仕事だからとか、仲間が傷付けられて悔しいとか、そういった思いとは関係なしに目の前の男を倒したい、倒さなければいけないという感情がアンドロスの胸中を支配していた。
「|我が求めるは汝が力(メー クウェット イルド ネー メフト)」
アンドロスは強く地を蹴った。
巨躯が生み出した衝撃により、彼が今まで立っていた地面が抉れ、砂埃が舞い上がる。
「|それは岩よりも巨大なもの(ティカ イルド グリスト コイ レビコ)。|それは高き空を落とすもの(ティカ イルド インメルク オレヴ ダフェイル コルス)」
大きな体に見合った丸太のような腕が、その先に続く岩のような拳が、ルカーに襲い掛かる。
既に少女の詠唱などアンドロスの耳には届いていない。最も、気に掛けるほどのものでもないだろうという思考もあったが。
拳が間近に迫って、そこでようやくルカーはアンドロスを見た。
そして、軽く横に跳躍することで巨岩の拳を躱(かわ)す。勿論、殴り掛かったアンドロスも最初から当たるとは考えていなかった。こんなのは小手調べだ。
そして、腕は一本ではない。アンドロスは打ち出した拳を引き、もう片方を突き出そうと力を込めた。
その瞬間だった。
「|それは何よりも強い重圧(ティカ イルド トナース コイ スティフォルト ヘグラス)」
「ぐっ…… !? 」
体が動かなかった。否、動かせないほどの重圧が、アンドロスの筋骨隆々な巨躯を襲っていた。見えない何かに圧し潰される感覚で、彼は地面に膝をつく。
この重圧は魔法によるものだ。彼の身に圧し掛かるものが目に見えないこと、何より纏わりつく魔力の気配がそう語っていた。
対峙するルカーは魔法を苦手とする『人狼族』だ。つまり、この魔法を使ったのは――。
アンドロスはまさかと思いながらも、一度は脅威でないと判断したロマーシカを見遣る。
彼女は、静かに男を見据えていた。
大量の魔力が彼女の周囲を取り巻いて渦を作り、彼女の淡いブロンドの髪や、紺のケープをふわりと持ち上げて遊んでいる。
彼女が魔法を行使しているのは、火を見るよりも明らかだった。
アンドロスは考える。この少女が魔法で妨害するのを計算に入れていたから、ルカーはあのような余裕を保っていられたのかと。
「あぁ ? 何やってんだ、オッサン」
が、その推理はどうやら違ったようだ。
突然姿勢を崩したアンドロスをルカーは胡乱な目で見て、不機嫌そうに問う。
彼女が魔法を使っていることを知らないのか、と問いかけて、人狼族が魔力の流れに鈍感なことを思い出して止めた。何よりこの重さに耐えることに精一杯で、説明をする余裕などない。
ただ、ルカーは視線でロマーシカの方を振り向き、その姿を見て納得する。
「おい、邪魔すんじゃ……」
ルカーが声をかけた瞬間、ロマーシカの意識が乱れたのか、アンドロスを襲う重圧が僅かに緩んだ。彼を目で制す少女に、ルカーも彼女なりの考えがあるのだろうと察して渋々黙った。
二人の意識がアンドロスから、魔法から離れた隙に、これ幸いとアンドロスはぐっと全身に力を込めて立ち上がる。
「|命令する(ユヴィオード)。|我が言葉に従い(メー レソウド ホークス セゴル オーセ)、|我が敵を圧し潰せ(メー フォーラ エゲーネ オレヴ ヘグラダン オーセ)」
けれどすぐにロマーシカは自身の魔法に意識を戻したことで、アンドロスは再び崩れ落ちた。
ぎりっと歯を噛み締めて、アンドロスはロマーシカを睨み付ける。
アンドロスは、戦いには慣れているつもりだった。魔法を武器にする者とも何度か戦ってきたし、不意打ちだってそれなりに経験している。
だから、これは完全に彼の油断が招いた結果だ。
ロマーシカの魔力の扱いが思ったよりも上手く、そこに詠唱が加わったことによってその力を増した。その結果、アンドロスは二度も膝をついた。
数百年を生きてきて、自身より経験の少ない子供に負けることの、何と悔しいことか。
「まだ続けるつもりなの ? わたしはあまりあなたを傷付けたくない。だって――」
この重圧からどう抜け出し、どうやって倒すか、などと考えていたアンドロスに、少女の声がかかる。
少女は言いながら、離れたところに寝かせたフィアールカを視線で示した。
ロマーシカだって、結果がどうなろうと『友達』と呼んでくれた彼女を傷付ける真似はしたくなかった。彼女が話しかけてくるときの笑顔が偽物だったとは、ロマーシカは思えなかった。
「っ……分かった。今回は身を引こう」
アンドロスもまた、気を失ったままのフィアールカを見て、仕方なく頷いた。
「そう。それで良いの」
アンドロスの返事を受けて、ロマーシカは淡々と頷いた。そして魔法を解かぬまま、くるりと踵を返す。完全に離れるまで、彼女も安心できないのだろう。
「わたしは――……」
去り際に小さな呟きを残すと、少女はルカーを呼んで、足早にこの場を立ち去った。
二人の影が豆粒ほどの大きさになった頃に、アンドロスはようやく重圧から解放される。
彼は息を吐き、静かに空を仰いだ。相変わらず灰色の雲に覆われた空からは、ちらちらと白い雪が舞い降りてくる。
彼女が残した言葉。
「わたしは『ちちさま』と離れて幸せになりたいだけ……か」
ここら一帯の町を治める領主であり、ロマーシカの養父である男を思い出して、アンドロスは眉を寄せた。そして、フィアールカに再び視線を向ける。
フィアールカは生まれたと同時に母親を亡くし、育ててくれた父親はルカーによって殺された。故に家族というものがとても大切な存在で、特に父親に対するイメージは、彼女が幼い頃に抱いた憧れなどが強く、父親という生き物を特別視している節がある。
そんな彼女が、ロマーシカの『父親と離れたい』という言葉を聞いたらどう思うのか。
痛む頭を押さえながら、アンドロスはフィアールカの元へと歩み寄り、その小さな体を優しく抱き上げた。
