エピローグ
   1

「ここは……」
 ふと気が付いて、辺りを見回す。鬱蒼と生い茂る森に囲まれながら、ここだけが開けて陽光が照らしていた。
 風の気持ちよさや、太陽の眩しさ。踏む草の柔らかさ。手を動かそうとすれば、動いている感覚もある。見下ろせば、小さな手の平がそこにはあった。
 服は、ワンピース、と呼べる白いものが一着。
 顔を上げて、改めて周りを見る。
 見覚えのある気がして。でも、先ほどまで自身は何をしていたのだったか。
「……オイ」
 ふと、後ろから声がかかって、彼女は振り向く。居たのは、男。ひょろりとした長躯の男だった。目深にロングコートのフードを被って、影に紛れて表情はよく見えない。
 その姿に――ほろりと、目元から雫が零れる。
 気付けば髪を振り乱して駆け、そして……抱き付いていた。
「……ぁ、あぁ……っ」
「な、どうした、オイ、オイって!」
 男が突然のことに、驚いたような声をあげる。けれど、それも構わず彼女は顔を横に振って、ぎゅうと抱きしめる腕に力を込めた。男の腹に顔を埋めて、溢れるままに名前を呼ぶ。涙で彼の服が汚れてしまうことなど今の彼女には気にする余裕もなかった。
「てる、みさ……っ、てるみさん……っ」
「オイ、落ち着けって……」
 ユウキ=テルミ。それが男の名前であった。
 それを思い出したのをきっかけにして、彼女は全てを思い出す。
 ここがどこで、今まで何があったのか。
「わ、わたし、ちゃんと、できました、ですか。ちゃんと……」
 まくしたてるように言葉を紡ぐ少女は、ふと頭に重みを感じて顔を上げる。
 覗きこむように見上げた先には、整ったテルミの顔が。影の中で、金の目が少女を見つめていた。テルミは暫く黙っていたが……やがて、
「当たり前だろ。ユリシア」
 彼は、覚えていた。彼女が世界を作り直したことを。直前、彼に関する一部の情報を削除したことを。彼女が頑張ったことを。
 名を呼ばれると、彼女は目を丸く見開いて、テルミを見つめる。
「……はい!」
 破顔する少女。頭を軽く叩く男。その耳に……別の足音が届いて。ユリシアがテルミから離れて、自然と二人はその方向を見遣る。
「何やってるんですか、二人とも」
 思わず間抜けた声が、少女の口から漏れた。だって、呆れたような、けれどからかうような声音で話しかけてきたその人物は、とってもテルミに似た顔立ちをしている人だったから。
 少女が驚いたように目を見開いているのが滑稽だったらしい。男は笑ってみせる。けれど彼らしく上品に、グローブを付けた手を口元に運んで。
「……そんなに、私が居るのがおかしいですか? ユリシア」
 目深に被った黒のハット、その下から零れるサラリとした緑髪。細められた双眸でじっと少女を見つめれば、自然とその名が口から漏れた。
「……はざま、さん」
 あの日、あの世界で、別行動をすることになって。それからずっと心配で堪らなかった彼に、ここに来て再び出会えた。
 それを理解した瞬間に、瞳がまた潤み始めて視界がぼやけてしまう。もう一人の『大切な人』の姿をきちんと目に焼き付けたいのに。何故かぼろぼろと涙が零れだして止まらない。必死に止めようと手の甲を擦りつけて拭うけれど、それでも止まらなくて。
 またこの二人と一緒になれることが嬉しいのに、悲しいことなんかないのに。
「……まったく、仕方ありませんね」
 少し呆れたような笑みを含んで、ハザマが嗚咽(おえつ)を漏らす少女の元へ歩み寄る。顔を覗き込むようにしゃがみ込んで、その手を差し出す。持っていたのは、真っ白なハンカチだ。
 その優しさがやっぱり嬉しくて、必死に声を絞り出してお礼を述べる。受け取り、拭いながら、やがてゆっくりと収まっていく興奮。荒い息と、紅く染まった鼻と目元。顔を上げて二人を見れば、彼女のその、間抜けた面を二人がまじまじと見つめて。
 それから、笑い出して。つられるようにして少女も思わず笑ってしまう。
「それにしても、ここは……どこ、でしょう」
 不意に笑いを止めて、不思議そうに少女は問う。それにはテルミが「あぁ」と漏らして答えた。
「俺らとユリシアが初めて出会った場所、だよ」
 答えを聞けば、少女は辺りを見回す。なるほど、確かに思い出して見ればその光景にそっくりかもしれない。自然に囲まれたそこに、ぽつんと白い教会が一つ建っている。
「……さて、行くか」
「どこに……ですか?」
 言うのはテルミだ。それに首を傾けて問いかけるのはユリシア。ハザマとテルミが顔を見合わせて、それからユリシアを見下ろした。
「どこに……って。私達の家ですよ」
 当然のようにハザマが答えて、ユリシアが再び間抜けた声をあげる。
 家という言葉の意味は分かっている。人が住むための場所のことだ。けれど、自身らが以前まで住んでいたのは統制機構の一室であり……家と呼ぶには相応しくない。だから、慣れない単語に思わず。
 少女の思考を何となく悟ったらしい。ハザマが溜息を吐いた。
「そりゃあ俺らがやったこと知ったら退職もさせられるだろ」
 寧ろ、今までが目的を同じとしていた上司のおかげで何とか居ることができたのだから。それが居ない今、統制機構でのうのうと働ける理由などない。
 その説明を受けて、少女は問いを重ねる。上司、というのは帝だったイザナミや『大佐』であったレリウスなどだろう。イザナミは消滅したけれど、レリウスはどうしたのだろう。他の皆も、どうなったのだろう。
 願望こそラグナから還されて何となく理解していたけれど、流石にどうなったかまでは完全でない彼女は知ることができない。それに……。
「レリウス大佐も同様に退職されましたよ。貯めていたお金を使ってどこかで好きに暮らしているんじゃないでしょうか」
 あの人、自身のお金などには一切興味がなかったので結構持っているんですよ。
 なんて冗談交じりに言うハザマに、暫く理解できていなかった様子の少女だったけれど、何となく幼い頭で理解した。彼も彼なりに穏やかに暮らしているということなのだろう。最初に会ってからあまり関わることは少なかったけれど、それなら安心だ。
 ハザマ曰く、他の資格者だった人達も元通り、そこそこ幸せな生活をしているらしい。
「一部の人は……まぁ、そのうち分かりますよ」
 そう言って、彼は歩き出す。続くようにテルミが歩いて、その斜め後ろを少女が追いかけるように駆けた。二人の間に入って、手を差し出す。握られる手。
 体温があるのかないのかよく分からないその手が、何故だか少し懐かしくて。
「そういや、ユリシア」
 歩きながら、ふとテルミが名を呼ぶ。何でしょう、と返事を返す少女に、テルミが何気なく問う。それは、彼女にあったものが、失くなっていることについて。
「テメェ、あれだけの蒼……どうしたよ」
「あ、えっと、それは……」
 そうだ。彼女は蒼から生まれ、大きな蒼の力を持っていた。それこそ、世界を作った神であるマスターユニットや、その模倣品であるタカマガハラの干渉を跳ね除けるほどの。けれど……それが今や、全く感じられなくなっていた。
 少女は少し言葉に迷った様子で、視線を泳がせる。それから、小さな声で答えた。
「もう、わたしには、いりません、ですから」
 彼女の願いは、大切な人達と幸せに過ごすことだ。そして、アマテラスの事象干渉がなくなった今、彼女がこれ以上世界をどうこうする必要もない。つまり、蒼だって必要がないのだ。
 ――もしかしたら、あれだけ蒼を求めていたテルミ達に、それで突き放される可能性だってあったかもしれない。でも、そんなことはないと、信じていたから。
「……そうか」
 少女の言葉に、テルミは短く相槌を打って、少女の手を強く握り締める。微笑む彼女。ハザマがからかうような一言をかけて、テルミがそれに反応して。
 向かうのは第十三階層都市『カグツチ』だ。そこに、これから家を探しに行くらしい。
 夏蜜柑(なつみかん)の香りを纏った風が吹く、二千二百年の六月二日。彼らは再び出会って、新たな生活を始めるのだ。

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