第七章 黄瀬の昼

「――其方(そち)はあの男……ユウキ=テルミを好いておるのじゃな」
 話す言葉遣いも纏う雰囲気もただならぬ者のそれであるというのに、紡がれる言葉の意味はひどく普通。齢の違う少女同士の会話は、姉妹のようであり、親娘のようであり、友のようでもあった。湯気が目の前に置かれた湯呑から立ち上る。
 帝の暗い色と対照的な、明るく淡い蜂蜜色の髪が揺れる。最初の頃こそ慣れなかったけれど、彼女と話すのは楽しくて、すぐに話せるようになってしまった。
「はい、だいすきです! だって、てるみさんは、わたしをひろってくださったんですし、いつもいっしょうけんめー、なんですもん」
 帝の言う『好き』とは次元が違う、もっと子供らしくて純粋な、だけれどそれ故に大きく広い愛のようなものを、ひどく幼い理由で生まれたそれを、身振り手振りを使って語るのは少女だ。
 そんなユリシアの言葉を聞いて、最初の方こそ微笑んでいたものの、最後の言葉を聞いて伏せがちだった妖艶さを纏う瞳が見開かれる。
「ほう……一生懸命、か」
 あの男の居振る舞いはどちらかというと人を煽りからかうような、努力とは程遠くも見える。しかし、『一生懸命』というのは間違っていない。数多の事象を観測し、時に酷な扱いを受けても目的のために動く様は――。
 けれど、それを理解できていないのだろう彼女が感じた、というのは少しばかり疑問だった。
「どこに、そう感じるのだ?」
 微笑みをまた浮かべ、こてりと小首を傾けてやる。すると彼女はぱっと顔を明るくして語ろうとして……黙り込む。そして、乗り出した身を引いて、顎に手を添え俯くのだ。
「えーと、えっと……どこが、でしょう……」
 分からないのに何故そんなことを言ったのか、ユリシア自身も分かっていなかった。出てこない、彼のこともよく分からないのに、努力なんて、どこに。記憶にはない。
 暫しその様子を眺め、少女が不安げに、縋るように帝を見たのを受けて彼女は口を開く。
「……まぁ良い。分からないなら、仕方ないだろう」
 そう言って、東の国のお茶――今では珍しい緑茶の入った湯呑を持ち上げ一口啜ると、彼女はすっと目を細めて笑った。
「せっかく余が仕入れた茶だ。飲まずしては勿体ない」
「そ、そう……ですね」
 話題を変えるように、未だ口のつけられていないユリシアの湯呑を指して帝が言う。それにハッとしたように頷いて、ユリシアは湯呑を手に取った。
 右手は横に、左手は底に添えて口許に運ぶ。
 確かギョクロという名前であったか、透き通った緑色は紅茶の温度より低い六十度ほどで淹れたものだ。鼻腔をくすぐる茶の香り。一口、口腔へ流し込めば渋みはなく、代わりに甘みとうまみがやってくる。そういうものを飲むのは初めてで少し驚きながらも、舌で転がし味わい、少しして喉に通す。
「美味いか?」
 問いに頷き、水面にまた視線を落とす。ハザマは書類を出しに行っており、諜報部の執務室にはユリシアと帝の二人きりだった。誰も入らないように、札をかけて。
 沈黙。茶をもう一口ばかり飲んで湯呑を置くと、帝がまた口を開いた。体を少しばかり前に倒し、机に肘を預けて頬杖をつく。
「ところで。ユリシアは……」
 首を傾ける少女に、帝はそこまでで言い止(さ)して俯く。どうしたんですか、とかかる声に頷いて顔を上げると優しく笑みを浮かべ彼女は問うた。
「いや。――ユリシアは『蒼』について、知っているか?」
 帝がユリシアと話したかった一番の理由はというと、これだった。
 『蒼』。全ての元であり、唯一無二の存在。何にでもなれる存在でありながら、何にもなれない唯一無二の存在。それの気配が、常識やこの世界のことを少しずつ語る度に、聞かせる度に、彼女から色濃く漂うようになっていた。きっと既にテルミも感じているのだろう。
「……あお、ですか」
 ユリシアにしてみれば、初めてテルミに出会った時にも同じことを聞かれたわけで。久々にその言葉を聞いたと思えば、それは彼女の問いであったことが不思議だった。
 青なんて、単なる色ではない。蒼。その響きには何か普通ではないものがある気がして。
 頷く帝に、ユリシアは一度目を伏せる。ゆっくりと開いて、帝を見つめた。頬杖をついたまま首を横に傾げる彼女に、確かめるように一言、一言。テルミに教えられた言葉を紡げば、彼女はそれに対し肯定するように頷く。
「……わたしには、よくわからない、です。でも、なつかしいひびきだと、さいきんおもうように、なったんです」
 おかしいでしょうか。問うユリシアに帝は一瞬だけ目を丸くして、静かに、ゆっくりと頭を横に振った。
 そんなことはないと、そう言ってユリシアを見つめる瞳の赤はやはり暗かったけれど、優しい色を宿していた。
「……でも、なんで、てるみさんも、みかどさんも、わたしにそんなことを、きく、ですか」
 疑問。彼女に、何故こうも『蒼』について聞いてくるのだろうか。懐かしいと感じる『蒼』について、彼らは何か知っているのだろうか。顎に手を添え首を捻る少女に、微かに帝が目を見開く。
「……その様子だと、自覚しておらぬのだなぁ」
「へ……?」
 自覚。何を自覚するというのだろうか、間抜けた声をあげてユリシアは顎に添えた手をそのままに、帝へと視線を遣った。
 帝は言おうとして、言葉に詰まる。逡巡。果たして、今ここで言うことで、本当に良い結果は得られるのだろうか。彼女は本当に自覚できるだろうか。『蒼』としての意識がたまに見えるようだとしても、彼女を混乱させるだけではないだろうか。
 そう思うと、今話す事を躊躇させて。
「……今は、まだ知らんでもよい」
 だからユリシアは疑問しかなかったけれど、帝はそう言うだけで深く語ろうとはしなかった。
「――さて、余はそろそろ帰るとするか」
 扉をちらりと尻目に彼女はそう言う。と、一拍遅れて扉にはノック音が三つ。顔を見合わせる少女達、帝の命令により部屋の持ち主である男――ハザマは戻ってきた。
「それでは、またな」
「あら、もういいんです?」
「ああ」
 立ち上がり、扉へ向かう帝に戻ってきたばかりのハザマが問いかけた。彼の隣に並んだ辺りで彼女は立ち止まると小さく頷き、肯定するのみだ。別れを告げるユリシアに一度振り返り、可愛らしく微笑むと、
「ファントム」
 亡霊を小さな声で呼べば今の『彼女』は帝の従順な僕(しもべ)になっている。はいわかりましたとでも言うように一瞬にして現れた帽子と影の亡霊は、帝と亡霊を中心とした紫の魔法陣を足下に浮かべ――消えた。
「あいかわらず、ふしぎなこうけい、です」
 ぽつりと零すのは、転移魔法のことだ。緻密な座標の計算や、それを起こすのに消費するエネルギー。それらが存在するとどうして転移の作用が起こせるのか。まるで機械の内側を覗くような不思議さを彼女は感じていた。
「……あ、そういえば。いくつかたりないものがありました」
 けれどすぐにそんなことも忘れて思い出すのは料理の材料だ。
 というのも先ほど帝に茶菓子でも出そうと思って確かめたところ、小麦粉も砂糖も牛乳だって底をつきそうなものが多かったのだ。買いに行くかというテルミの提案に素直に彼女は頷いて。



「……えーと。どこ、でしょうか」
 首を左右に振って辺りを見ては、ぐるりと後ろを向いて同じようにして、首を捻る。
 人々が行き交うカザモツの中、慣れてきたと思ったその場所で、彼女は迷っていた。歩く人を避けて、うろうろと辺りを彷徨う。両腕に抱えられたのは先ほど店で買ったものたちだ。
 ユリシアの買い物に普段なら付き添うテルミであったが、今日はこの機会に一気に物を買うため長くなるからと、テルミに店の外で待たせていた――のだが。
 いざ買い物を終えて店を出てみると、そこに見慣れた影は見えないのだ。一歩二歩、進み出て辺りを軽く見回すのだけれど道の反対側に居るというのもなくて。
 迷うほどカザモツに慣れていないわけでもないけれど、殆どの道を正確に把握しているわけでもない。下手に動いて迷っても。でもしかし、何かあったら。
 テルミのことだから何かあっても平気だろうし、それにここ、カザモツは治安も悪くないから平気だと思うけれど。相手に外での休憩を提案したくせに、できる限り離れたくないと思うのはそこまでわがままだろうか。
 何かしていないと考えがどんどん悪い方向に行く気がして、ユリシアは一歩その足を踏み出した。一歩、一歩、ゆっくりと進めていた足はやがて速度を増しいつも歩くときと同じ速さにまでなっていた。
 そして冒頭に戻るわけだ。気付けばはずれまで来ていて。そこまで歩いている自覚はなかったけれど、景観を維持するためか大体似たような景色のために。気付けば見知らぬ場所にまで来ていた。時々戻ったりを繰り返していたつもり、だったのだけれど。
 これは不味い。頬に汗が伝い、さぁっとユリシアの顔から血の気が引いていく。
「……えっと」
 取り敢えずは戻らなければ。そうして振り返って――肩が、横をすれ違った人物にぶつかる。赤いジャケットが見えた。
「あ、ごめんなさい、です」
「いや、いい」
 お互いに短く謝って、足早にその場を去ろうとする。けれど、すれ違うとき、何故か微かに懐かしい気配がして。声もなんだか聞き覚えのある気がして、彼女は思わず振り向く。
 『彼』も同様にこちらを振り向いていて、斜陽に白く輝く銀の頭髪と赤い瞳が見えて、声が漏れる。知っている人だった。せかいのてき、と呼ばれた男。
「……あ」
 思わず漏れる声。少女の口から出るのと同時、男の口からも零れ落ちていた。
 人通りが少ない中、彼に気付く者はおらず、意識したところで自身から絡みに行く愚か者は居ない。指名手配中の死神が現れるなど思っていなかったのだろう、誰もラグナ=ザ=ブラッドエッジであることには気付かない。こんな場所で立ち止まる邪魔な男だとしか。
 竦む足、逃げなくてはと思うユリシアであったが上手く身体が動いてくれない。
「……オイ」
「ひっ……」
 攻撃されれば鎌の一つでも構えて応戦したけれど、そうしない彼には手を出せない。そんな変な考えが、逆に恐怖を生む。何をされるのだろう、目をぎゅっと瞑る彼女に齎されるのは――声だった。少しばかり困ったような声。
「んな構えなくても取って食ったりしねえよ」
 目を薄らと開ければ、眉を垂れさせた男が後頭部を掻いていて。次いでかけられる言葉は、テルミはどうしたんだ、と。
 どうするべきか悩んで、警戒の解けないまま、一言震える声で告げる。
「……てるみさんとは、はぐれました」
 ぽつりと、零される声。あまりにも自然に耳に入ってくるものだから、ラグナは一瞬へぇと聞き流そうとして、その事態のおかしさに間抜けた声を漏らす。
 あのテルミが少女とはぐれるだなんて。否、そもそも一緒に居ることが可笑しいのだから別に可笑しくはないはずなのだけれど、彼女がはぐれたというのが、何故か可笑しい気がして。でもそれを言い出すこともできず、ラグナはマジかよ、とこぼすのみだった。
 それにしても傷はもう平気なのだろうか。そんな心配が過ったけれどそれは言葉には出さず、おぼつかない彼の足元を見ても何も言うことはできなかった。
「んで、はぐれた奴がなんで一人で歩いてんだよ。テルミが心配するんじゃねえのか」
 普通、一人で歩かずにその場で待機するものではないのだろうか。憎しみを向けるあの男の性格を考え、心配なんてしない気もしたけれど。
「……じぶんでも、よくわからないです。それよりも、せかいのてきさんは、どうして」
 何故動いたのかは分からない。動けと勘が告げていたとしか言いようがない。それよりも彼は、こんな街に、何故。問うユリシアに一瞬微妙な顔をして、ラグナは目を斜め上に逸らす。
「世界の敵って呼び方はどうかと思うんだが。……人を探してんだよ」
 強ち間違いでもないとは思うが呼び方が少しばかり聞き慣れないもので、少しばかり言葉を漏らすけれど。この少女は一応敵側の人間だが理解できないだろうとして、隠すことなく自身の今の目的を語ってやる。
「ひと……ですか。それは、てるみさんのこと、でしょうか」
「違ぇよ。テルミのことはテルミのことで何企んでやがんのか知りてぇけどよ。今は……ノエルっつー女を探してんだ」
 俯き、問う少女にラグナが答える。――ノエル。その言葉を聞いた途端、ユリシアが下を向いていた顔を少しばかり持ち上げた。
「のえる、さんを」
 そこでラグナは気付く。あの現場、ノエルが第十二素体ミュー・テュエルブとして精錬された現場も、その前のことも彼女は見ているのだ。そして、その口ぶりから彼女がノエルと知り合いである人物なのだろうと。
 もしかしたら、彼女の居場所を知っているかもしれない。何せ、あのテルミ達と共に行動しているのだから。
「ノエルを知ってんのか? 今はどこに居るんだ。俺はソイツに会わなくちゃいけねえ」
 そんな僅かな期待から身を僅かばかりユリシアの方に乗り出して問うラグナだったが、その近付いた分だけ彼女が一歩退く。
「わ、わたしは、しらない、です。わたしだって、しりたい、ですし、でも、のえるさんたちは『はんぎゃくしゃ』で『てき』だから、その」
 ぶんぶん、と首を横に振り、必死に否定する少女。普段なら気にしないその拙くたどたどしい話し方は聞き取りづらく、そしてだから何を伝えたいのか分からないそれは、探すものが上手く見つからない苛立ちを覚えるラグナをさらに苛立たせた。
「なぁ……もうちっとハキハキと喋れよ」
「ごめんなさい、その、おしゃべり、とくいじゃなくて」
 何故だか無性に腹が立つのだ。先ほどまでそんなことはなかったはずなのに。彼女が悲鳴をあげ謝るたびに、余計に。だからか、意図せず口ぶりが乱暴になってしまう。
「にしてもテメェはなんであんな奴と居る。アイツはクズだぞ。人の人生めちゃくちゃにした挙句それで苦しんでる奴を嘲笑うような。そんな奴に」
「――ください」
 聞き取れず、問い返す。ラグナの言葉を遮るように発された声は小さくか細く、最初何を言っているのかわからなかった。
「……てるみさんを、わるくいわないで、ください……ひどいこと、いわないでください」
 やがて大きくなる声。それは、ラグナの言葉が事実だろうと、彼女にとっては間違いだからだ。確かに笑うべきじゃない場面で笑っているのを見たかもしれない、確かに時々怖い顔をするのも見たかもしれない。けれど、彼女には何がどうなっているのかわからないから。
 首を傾け、眉根を寄せるラグナに彼女は一生懸命になって言葉を紡ぐ。
「わたしは、むずかしいことは、わからないです。ただ、あのひとは、なにもわからないわたしに、なまえをくれて、すむばしょをくれて、いろんなことをおしえてくれて、とてもたいせつなひとなんです」
 まくしたてるように語られるその声は、言葉は、やはり舌足らずで、たどたどしくて、弱くて幼いものだったけれど、遮ることを許さない強さがあった。それでも、ラグナは一瞬目を見開くのみで、
「相手が悪(わり)ぃんだよ。アイツは……アイツは」
 その心は、大切な人が居るという想いは素晴らしいものなんだろう。とても綺麗で優しく、眩しいものだとラグナは思う。けれど、その想いを向ける相手によって、状況は変わる。特に彼の場合――。
「せかいの、てきさんは、どうして、てるみさんを、そんなにきらうんですか」
 不思議だった。あんなに自分のために色々してくれた彼を、どうして嫌う人が多いのだろうか。ハザマの方だってそうだ。分からないけれど、皆、良い感情を持っているとは言い難い眼を向けるし、彼女には理解ができなかった。
 ピリ、とした空気が肌を伝う。途端、ラグナが口を開いた。
「うるせぇ、俺が世界の敵だとしたら、それもアイツのせいだ。全部、全部アイツのせいなんだよ……っ」
 声はだんだんと大きさを増し、苦しげに、憎々しげに語られる言葉はいつしか怒鳴り声となっていた。伸びる大きな手が、ユリシアの白い腕を掴む。ぎゅ、と強く握られ、引っ張られれば抱えていた袋は地面に落ち、中身をぶちまける。
「いたっ……」
「いいか、アイツみてぇな奴についても何も良いことなんかねぇぞ。寧ろ不幸になる。テメェが信じるような良い人じゃねえんだよ、テルミは」
 ユリシアを引き寄せたラグナが目を見開き眉根を寄せそう言う。合わせられる目線、恐ろしいほどの怒りに満ちたその両目を見つめる彼女の蒼い瞳が揺れる。腕の痛みと、突然にひどく苛立ちを見せた彼に理解が追い付かなかった。
「あんな奴のどこがいいんだよ、なあ」
 言ってみろよ。彼女を睨み付けたままラグナが煽る。目を逸らす。彼はきっと答えなど望んでいないのだろうと思って、答えたら余計に苛立ちを見せるのではと思わずにはいられなくて、震える唇は言うことを聞かなくて。
「ほら、言えねえんじゃねえか」
 吐き捨てるように紡がれる言葉がユリシアの胸に突き刺さり、質量はないはずなのに痛みをおぼえる。ぱくぱくと口を動かす。握られた腕を見れば、余程力が込められているのか赤くなっていた。細い腕はなんなく彼の手の中に捕まえられるし、振りほどけない。感覚がなくなってきたようにすら思える。
 ――しかし、視界を何かが掠めるとほぼ同時に、腕は解放される。血が通る感触が少しばかり痒い。そんなことを思えば、目の前で轟音。大地が揺れる。
 黒く、大きなものが見えた。
「おいおい、女の子の扱いはもっと丁寧にしろよ。それとも女の子の扱いも知らねえってか? つか俺の女に手を出してんじゃねえよ。……大丈夫か?」
 振り向く男は、カグラだった。振りかざした大剣を片手に、彼女とラグナの前に立ってニッと笑いかける。一体、何が起こったのか、一瞬彼女は理解できなかった。目を白黒とさせて、だけれど少ししてやっと言葉の意味が分かったのか頷いた。俺の女、という部分は理解できないためそのまま流したけれど。
「んだよ、邪魔すんじゃねえよ。つかテメェ誰だ」
 ラグナが男――カグラに向けて問う。ラグナからしてみれば、苛立っているときの突然の邪魔、それも見知らぬ正義漢ぶった男となれば余計に苛々も募るわけで。
「俺が誰か分かってんのか、あぁ? 後悔しても知らねぇぞ」
 威嚇するラグナに対し、ひどく呆れたような様子で彼は溜息を吐き首を横に振った。
「へいへい、後悔でもなんでもしてやるからその根性叩きなおしてやんよ。史上最高額の賞金首、死神ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」
 再度ラグナを見るカグラの眼は、ひどく好戦的で愉快げなものだった。ラグナの台詞があまりにも御伽の中の悪役の台詞に酷似していて面白かったというのもあるし、何より彼の噂に期待している節もあったからだ。
 クソ、と吐き捨ててラグナが白い刃の大剣を構え直し、駆ける。振りかざされるそれは重いが、避けられればただ地面に叩き付けられ隙を見せるのみだ。そこに差し込むように、後ろからカグラが蹴り、大剣の腹を叩き付ける。
 いつもよりも、身体が上手く動かないとラグナは思う。先ほど開いた傷のせいでもあるだろうが、何故だか右目が見えづらく、腕が重い。
「ぐぁっ……」
 そうしている間にもカグラが次の攻撃を放ってきて、それを間一髪で躱したラグナにカグラがくい、と手招いて挑発した。
「どうした、こんなんじゃ後悔なんざできねぇぞ。死神っつーあだ名は尾ひれが付いたもんなのかよ?」
 二人の戦い――ほぼほぼ一方的な攻防を見つめながら、ユリシアが一歩、二歩退る。背中に何かが当たる感触がして、振り向き慌てて謝る。
「ううん、大丈夫だよ」
 そう言ってユリシアに答えるのは、栗色の髪をポニーテールにした少女だった。齢は多分、ノエルたちとそんなに変わらないだろう。彼女は一度ユリシアに目を向けるも、二人を、主にラグナを心配げに見つめる。
 ユリシアはただ不思議だった。
 彼が突然現れて自身を助けたともいえる状況も、ラグナがあそこまで苛々しているのも。そして何よりも、彼女の存在を意識した途端、何故だか、一瞬だけ胸の奥がざわりと嫌な気配に満ちたのだ。
「ラグナ……」
 ぽつり、と少女が漏らす。テルミも言っていたその名が、彼の名前なのだろうかとユリシアは首を傾ける。やがて彼女と同じようにユリシアも数歩離れ場所で彼らの戦いを見ていると。
 ラグナが何かを叫んだ後、ハッとしたように茶髪の少女の方を見た。その余所見をした隙に、カグラがラグナの背後から首を叩く。膝が地に吸い込まれるように力が抜け、倒れ込むラグナ。
「けっ……期待外れかよ」
 見下ろし吐き捨てるカグラに、少女の体が揺らいだ。駆け寄り、ラグナの元へしゃがみ込み、顔を窺う。
「ラグナ……! カグラさん、あまりラグナに乱暴しないで」
「わーってるよ、セリカちゃん。ただ気絶させただけだ」
 悲しげにカグラを見上げる少女――セリカに、カグラが困ったように笑って言う。その言葉に安心したように頷いて、彼女はそっとラグナの頭髪を撫でた。
 一方、それを見ていたユリシアといえば、ただ何をすることもできず茫然と佇むだけだった。
 やがてそれに気付いたようにカグラとセリカの二人が、首をユリシアの方へ向ける。カグラが歩み寄り、怪我はないかと問えばそれには素直に頷くのだけれど。ニッと笑う彼に一歩、後退る。
「あー……ところでユリシアちゃん、アイツ……ハザマはどうしたんだ。一緒じゃないのか?」
 ユリシアのそんな様子に困ったように後頭部をぼりぼりと一度掻いて、暫し目線を逸らし考える素振りを見せた後、カグラは中腰になってユリシアと目線を合わせ問う。なるべく警戒させないようにしても解けないのは承知のもと。
 以前ほどではないにしろ、やはり慣れぬ相手への怯えを見せる少女に、流石に目の前でやり過ぎたかという反省は胸内で、問いへの答えを首を傾けることで促してやれば震える桜色の唇が紡ぐ言葉。
「その……はぐれ、ました。かいものを、していたら、えっと」
 一つ一つ、単語を確認するようにして、時折ラグナとカグラの戦いにより踏みつぶされた買い物袋をちらちらと見ながら話す彼女が語る言葉だけでおおよそのことは把握できたカグラはそうか、と言ってユリシアの頭に手を伸ばす。目をぎゅっと瞑って身構える彼女の頭を優しく撫でた。その間、彼女の体に力が入りっぱなしであるのを見て、ははっと苦笑しそっと手を離してやるとカグラは言葉を漏らす。
「諜報部で保護~とか言う割に目離してんじゃねえか」
「そ、それは、わたしが、ていあんしたことで」
 ハザマを悪く言うような台詞を聞きつけ、顔を上げユリシアが慌てて否定しても、カグラは首を横に振る。保護だと言うならいくら提案されたとしても最後まで見ておくのが当たり前なのだと語る彼に、何も言えなくなってユリシアは俯く。
「――なあ、ユリシアちゃん」
 カグラが立ち上がり、ぽつりと漏らす。自然とまた顔を上げて、ユリシアが首を傾げたのを横目に彼はある言葉をかけた。
「なんであんな奴を大切にしてるんだ?」
 今回を含めて二回しかまだ会ったことはないのだが、他に比べてハザマにやけに懐いているというか、大事にしている様子が見て取れる。あの男は会っただけで胡散臭さや得体の知れない不気味さを感じるし、何より慇懃無礼に形を与えたような人物だというのに。
 しかも――彼、カグラ達の計画において敵となる存在であることも。その他のことも色々と、現在協力関係にある第七機関のココノエの情報によって多少なりとも知っている。
「ノエルちゃんも心配してたんだ。だから、もしユリシアちゃんが来たいってんなら、こっちに来ねえか」
 ハザマは凶悪な男だ。ノエルすらも道具として精錬し、神を殺そうとした人物であるのだから。だから彼女、ユリシアが何かしらで同じように利用されないかノエルもカグラも不安であったから、何故かこそ言わないものの心配なのだと告げる。
 それに、カグラの望む平和な世界に、会ったばかりである彼女も必要だと思ったから。もしかしたら、彼女も彼が傷つけかねない。それならば、一刻も早く――。
「……です」
「へ?」
「……いや、です」
 拒否。ノエルは友人のはずだから、その名を出せば多少揺らぐかもしれないという期待のようなものはあった。けれど、答えは考える間もなく出され、しかもカグラを見上げる瞳には敵意こそないけれど、明らかな警戒と怯えが色濃く浮かんでいた。先ほどよりも、強く。
「のえるさんは『はんぎゃくしゃ』じゃないんですか。なんでそんな『てき』といっしょにいるみたいなこと、いうですか」
 別にノエルのことは嫌いではなかった。寧ろ、ユリシア自身も友と呼べる存在だと――。だけれど、彼女は敵だと言われたのだ。ならば『たいせつなひと』の敵とは関わっちゃいけないはずだから。なのに、解釈が間違っていなければ『たいせつなひと』と同じ、統制機構の人物が敵のことを知っている、寧ろ同じところに居るというような発言をしたのが理解できなくて。
 まさか、この人も敵なのでは。そんな考えが過って、ユリシアは警戒せずにはいられなかった。
「……マジかよ」
 こんな小さい子にまでそういうことを伝えるのか。それも、伝えられた限り衛士でもなく保護されているだけの人物にまで。カグラの顔が引き攣り、思い浮かべる緑髪の男に苛立ちが浮かぶ。つくづくあの男は気に食わないことをする。ぼそりと零した言葉を繕うように、怪訝そうな顔で首を傾ける彼女に笑って、また目線を合わせる。
「ノエルは敵じゃねえよ。確かに統制機構を抜けはしたが、今でも俺ら(・)の立派な仲間だ」
 そう言ってまた撫でやろうとするカグラ。伸びる手。だけれど、それは、乾いた音と共に払われる。ぱしん、と。
「うそです、だって、あのひとが、はざまさんが、うそをつくわけ」
 ハザマは良くも悪くも嘘を吐かない人間だと思っていた。時々それで冷たいことを言われたかもしれないけれど、それでも。だから、カグラの言った『仲間』だという台詞を信じればハザマが嘘を吐いたことになる。それだけは嫌だった。
 意外さに目を丸くするカグラに首を横に振って、彼女は駆けだそうとする。呼び止めるカグラを無視して。だけれど――。
「おや、どこに行くんですか」
 どん、と跳ね返されて踏鞴を踏むユリシアが見上げた先では、聞き慣れた声がした。
「怪我はありませんか?」
 見下ろす彼――ハザマがユリシアにそう問えば、彼女は一瞬目を真ん丸にした後に頷いて、それから。ぽろり、と涙を零した。
 しかしそんな彼女の返事だけを受け取って、ハザマはカグラの方に視線を遣るのだ。
「何やらご迷惑をおかけしたみたいですみません、『カグラ=ムツキ』大佐」
 帽子を取って軽くお辞儀をする彼に向けられるカグラの眼は冷たい。ハザマが現れた途端、空気が汚れたような気配すらしたからだ。だが嫌われるのにもそういう対応をされるのにも慣れていた彼が今更それを気に留めることもなく、ハザマは苦笑を浮かべて帽子を頭にそっと乗せると、でも……と前置いて、
「……『こちら』が保護している対象を、そう簡単に誘ったりしないでくださいね」
「じゃあ目を離してはぐれたりすんじゃねえよ」
 薄らと目を見開いて忠告するハザマにぴしゃりとカグラが言ってのける。それに開いていた目をいつも通り細めて、動じることもなくハザマは首を横に振った。
「帝のご命令で、なるべくコレの意思を優先させろとのことでして。ああ勿論、追跡の術式はかけておりますよ。だからここまで来られたわけですし」
 言われることは分かっていた。ならば『彼女』の名を出せば事はすっきり済む。事実、あの仮面の上司や世界を今管理する人物にも彼女のやりたいことをなるべく優先させろとは言われていたのだ。それで彼女が自ずと自身のことを自覚するようになれば――と。
 勿論それで今回のようにあまりに離れられては困るため言った通り追跡の術式はかけていたが。
「また帝か。……上が口出すほどの重要な御仁なのかよ」
 なんて話しながら思い出していたハザマだったが、帝の名を出されたカグラが不審に思い問うことで現実に戻る。
「そうですね。そこら辺は私にもさっぱりですよ」
 何せ、こんな子供なんですから。そう言って手を顔の横に掲げるハザマにカグラの不信感が余計に募る。
「もしかしたら、こんな見た目をして世界を滅ぼせたりなんかしちゃって……いやいや、冗談ですよ冗談」
 にこやかに微笑んだままハザマが言う台詞に眉根を顰める彼、それに焦ったように首を振るハザマの無駄にも思えるやり取り。さて、帰りましょうかとハザマがユリシアの手を引きカグラに挨拶をかける――のだが、そこでどうしようもない寒気がハザマを襲う。
 思わず握った手を離して、ばっと振り返る。一歩、後退った。
「待って……!」
 それは、ポニーテールを揺らすセリカだった。ハザマを見つめ、彼女はほんの少しだけ眉を垂れさせて、問う。ハザマの様子など気付かずに。
「あなた……どこかで、会ったことある?」
「な……」
 ハザマがセリカを見とめた瞬間、これ以上ないほどの驚きに目を皿のように見開いた。漏れる声と、震えだす身体。何故、とこぼした声はあまりに掠れて小さく、ハザマすら聞き取れぬほどだった。けれどハッとしたように双眸を細め、帽子のツバを持って目深に被り直すと彼は暫しの沈黙の後に、
「……いえ、申し訳ありませんが貴女とは初めてお会いしましたね」
 そう言って、くるりと踵を返す。
「そ、そっか。ごめんなさい。あまりに知り合いに似てたから……」
 ハザマの言葉と態度に困ったようにへらっと笑うセリカに返す言葉は短い。ハザマは一刻も早くこの場を立ち去りたかった。だって、彼女は。普段なら嫌味の一つでも言うのだろうけれど、震える唇はいう事を聞かない。今にも胃の中身をぶちまけてしまいそうなほどの不快感が、酸っぱいものが喉までせりあがってくるのを必死に抑える。
「そ、そうそう。追跡の術式をかけていたと言いましたが、何故か反応が鈍くてですね……いやあまるで『ここだけ魔素が薄くなった』みたいに。それで見つけるのが遅くなったんですよ。何か知りませんか?」
 カグラを尻目に吐き出す言葉はいつもよりも口数が多い。でも言葉を出したところで気を紛らわす程度にしかならず、気持ちの悪さはどうにもできなかった。
「……知らねえな。ほら、さっさと行った行った」
 答えが出るまでの僅かな間すら気に障る。それでは今度こそ失礼いたします。そう言って、またユリシアの手を掴むと彼は心なしか足早にその場を去った。
 未だ納得の行っていないようなセリカに、そんなに似ていたのか、と問うカグラの声はもう既に遠く聞こえていた。
「……あの、どうかしたんですか」
 握るハザマの手は震え、手汗でびっしょりになっていた。顔色も窺った感じでは良いとは言えず、いつものどこか余裕がある彼とは程遠い様子に彼女が問いかけたのは、もう随分と彼らから離れて、彼の様子が落ち着いてきた頃だった。
「何が、ですか?」
「あの、おんなのひとが、ちかづいたとたん、とてもいやなかお、してました、です」
 何のことだと問うハザマにユリシアが語る。あの少女を意識した途端胸がざわりとしたけれど、ハザマのそれはまた違った感じだったから。
「……あぁ、アレに近付くと私、とても気分が悪くなって……吐き気がするんです」
 歩きながらハザマは語る。知らないと言っていたけれど、まるで彼女のことを知っているような、彼女と居るとどうなるかを前から知っていたかのような。けれど思ってもそれを指摘することはなく、そうなんですかと返してユリシアは俯いた。
「……はざまさん」
「今度は何ですか?」
 俯く少女に見向きもせずに、ただ今度は離れぬようにしっかり握った手をそのまま彼は問い返す。ユリシアが話の口を切る。内容は、先のカグラの話した内容のことだ。反逆者であるはずのノエルと一緒に居るような、寧ろ彼女を仲間だと言うような。
「……あらら。それは大変ですねぇ」
 言葉の割に驚きは見せず、ハザマはふと立ち止まる。気付けば先ほど彼女が買い物をしていた店の前まで来ていた。
「もう一度、買い直しましょうか。あの人達にぐちゃぐちゃにされちゃったんでしょう?」
 ユリシアを見下ろして彼が告げる。きょとり、と目を丸くした彼女はやがて大きく頷いた。
 何故あの女――セリカが居たのかも、今後の彼らの出方も色々と考えなければならない。けれど、今はこの少女と買い物を済ませるのが先だ。



 チープなコール音が数度鳴り響いた後に、その通信に出たのは一人の女性だった。
「あら、レリウス博士? あなたから通信なんて珍しいわね。どうかしたの?」
「至急、イカルガの魔素濃度を調べてくれ」
 女――ライチが通信に出るや否や要求を伝える彼。感知した異常が正しいものか調べるためだ。今は壊滅してしまった第五階層都市イブキドの窯の前で彼は彼女の返事を待つ。
「解った。場所はどこかしら?」
 イカルガは複数の階層都市の集合体で、今は連合階層都市と呼ばれる場所だ。そのイカルガのどこを調べればいいのか、問う彼女にレリウスが答える。
「……第七の『カザモツ』だ」
「ちょっと待ってて。……あら、おかしいわね。ごめんなさい、もう少し待って」
 短く答えるレリウスに静かに告げると、小さなタイプ音が聞こえる。要求通りに調べているのだろう。けれど、答えはなく代わりに通信越しに彼女が不思議そうに声をあげる。
「やっぱり変だわ。カザモツの周辺だけ、他の階層都市に比べて魔素濃度が十五パーセントも急激に落ちている……」
「カザモツのデータを三日前まで遡(さかのぼ)れ」
 動揺を見せるライチに対し、動じる様子もなく仮面が命令すればまたタイプ音とクリック音が少しばかり鳴り響いて、やがて目的のデータに辿り着いたのか音が止むと。
「あら? 三日前のデータには異常がない。……その代わり、ヤビコが……え? 三十パーセントも落ちているじゃないの。これ以上下がれば民の生活に支障が出るレベルだわ」
 鼓膜を震わす通信の声は明らかな焦りと驚きを見せていた。まるで、何者かが魔素を打ち消しているかのように、魔素が減っているのだから。
 やがて要求しデータを転送されたレリウスも、それを見て――ふっと、口許を笑みに緩めた。
「……まさか、彼の亡霊に私が怯える日が来るとはな」



   1

「……んで、なんで俺がここに閉じ込められてるんだよ」
 統制機構のヤビコ支部に設けられた地下牢で、死神ラグナ=ザ=ブラッドエッジはその身を牢屋に収容されていた。
「だってお前、重犯罪者じゃん。それに反逆者だし……自分の犯罪歴覚えてないの?」
 ラグナの言葉に返すカグラは眉根を寄せひどく小馬鹿にした様子で彼を見ていた。彼の言葉に、本当に自身の今まで犯したことを忘れていたのかラグナが驚きに声をあげる。
 統制機構反逆罪で速攻処刑されないだけありがたい、ちなみに反逆罪は打ち首だとカグラは語る。それに何も言い返せないラグナと対照的に、それを聞きつけた少女――セリカとノエル達が、目を見開いて口々に止めてくれと言うのだから、桃色の髪をした猫の半獣人――ココノエが可笑しそうに笑う。
「モテモテだな、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」
 それに返す余裕がないほど、彼女らの思いも現実も辛く、ラグナが一思いに殺してくれと零したところでそれを否定するかのようにカグラが口を開く。
「安心しろ、お二人さん。殺しはしねえよ。コイツにゃまだやってほしいこともあるしな」
 ニッと笑ってそう言うカグラに、ほっと胸を撫で下ろすセリカ達。
「よかったぁ~! それならひとまず安心だね!」
「全っ然、安心じゃねえよ! カグラ、俺はテメェの言うことなんざ聞く気はねえぞ」
 しかしそんな彼女らと違い、処刑を先延ばしにされた当人のラグナといえばこの有様だ。けれどカグラはそれに好きにしな、とだけ言ってノエルに目を向ける。
「ところでノエルちゃん。マコトはどうしたよ」
「マコトとは途中ではぐれちゃって。多分今もツバキを探してると思います」
 それは、匿っていた二人が出て行った時は一緒だったのに、今では別行動をしているのを不思議に思ったカグラの問いだった。答えははぐれた。その言葉に先の少女のことを思い出して一瞬眉を顰めそうになるが。それを咄嗟に隠して、
「そうか……んじゃ、ノエルちゃんは暫くこの支部(ココ)に居てくれ。マコトの方は俺が何とかする。勿論、ツバキも含めてな」
 カグラの言葉。が、ノエルはそれに従おうとしない。未だ不安げな表情で、でもと零す彼女にカグラは困ったように笑って、
「解ってるさ。それに、ツバキにはマコトとノエルちゃん『達』の想いが必要だからな。でもバラバラじゃあ駄目なんだ。いいかい?」
 諭すように言う彼に、それでもと彼女は首を横に振り、カグラを見つめた。震える瞳は今にも泣きだしそうで、今にもまた出て行ってしまいそうなのを必死に抑えているのか身体は震えていた。カグラはそんな少女の眼をしっかりと見つめ返して、言う。
「心配なのは俺も同じだよ。ツバキとは付き合いも長いし。だからこそ、時間をくれ。二日で良いから。約束する、そしたら必ずツバキに会わせてやるから。――俺を信じてくれ」
 真剣なカグラの表情と、その真摯な言葉。カグラだって、彼女が大切なのだ。それがしっかりと伝わったから、ノエルはやがて表情を少しだけ緩めると、折れたように頷いた。
「分かりました。お待ちしてます」
 お前も見習ったらどうだ、とラグナに言うココノエを尻目に、いい子だと言ってカグラはノエルの頭に手を伸ばした。柔らかく笑ってその手を受け入れる少女と、自身の手を頑なに怖がるあの少女が重なって、カグラは思わず手を引っ込めかける。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない」



 場所は変わって、カグラの部屋まで上がって来ていた。
「で? なんでラグナを地下に閉じ込めたんだよ」
 カグラが自身の椅子に座るや否や、腕を組んでそう問う。ラグナにはああ言ったし、事実彼は重い犯罪を犯してはいるが、閉じ込める指示を出したのはカグラでなくココノエだった。
 視線を投げてくるカグラを目つきの悪い瞳で見ると半獣人のココノエは鼻先をひくりと動かしてから、静かに答えた。
「帝の事象干渉で、イカルガ全体がピリピリしている。地下には『体干渉用』の処置を施したと言っただろう? だからアイツには地下へと入ってもらった。これで多少頭も冷えるだろう」
 伏せる目の下には疲れと多少の苛立ちからか隈ができていた。帝の干渉力は今、知る中では誰よりも強い。口から飛び出た飴の棒が時折動くのを見つめ、そうかと短く答えるカグラにココノエの方が今度は首を傾けた。
「それより、お前の方こそツバキ=ヤヨイの件はどうするつもりなんだ?」
「どうするもこうするも、俺じゃどうにもできねえよ」
 ツバキに会わせるなどと偉そうにノエルに伝えていた割に、どうやって行動するのかがイマイチ見えなかった。そのためにココノエが問えば、彼は先ほどと打って変わってあまりにも頼りない言葉を吐き出すのだから、彼女は思わず目を見開き抗議した。しかしそれを手の平を突き出すことで制して、カグラは言う。
「落ち着けって。ノエルちゃんにも言ったろ」
 眉根を寄せ首を先とは反対に傾げる彼女に語るのは、ツバキには『アイツら』の声が必要だということだ。だからカグラ自身はその場所を用意するだけで、あとはコイツらが……。
 コイツらという単語が指すものがわからず、眉間に一層皺を刻み込むココノエであったが、それは彼がココノエから視線を外し呼びかけたことで理解する。
 振り向けば、そこにはカグラの秘書と、それに連れて来られたのだろう金髪にグリーンの瞳をした男がいた。
「……貴様の言葉、本当に信じていいんだろうな」
「あぁ、任せとけ」
 男――ジンがいくらか信用しきれない様子で問う。彼もまたツバキとは付き合いの長い一人で、兄として慕われてきた人物でもあった。彼女を救いたい気持ちの強さはカグラやノエルにも負けない。そんな彼に得意げに任せろと語って、カグラは黒髪の秘書へと視線を向ける。
「ヒビキ、そっちの進行具合はどうだ」
「はい、コロシアムの方は現状タイムテーブル通りに進んでいますね。ケーブルの準備などに少々手間取ってはいますが、二日後には完成するかと思います」
 ヒビキと呼ばれた若い青年の秘書は、琥珀色の瞳でカグラを見つめると淡々と報告を口にする。それを聞いて頷くと、カグラは次の質問を投げかける。
「ツバキには何人付けてる?」
「常時十二人、二十四時間態勢で監視しております。無論その分、当人も気付いていますがね」
「そうか。なら二日後、四人残して残りはコロシアムに向かわせてくれ。そうすればツバキは必ずコロシアムに来るはずだ」
 答えるヒビキに、暫し考える素振りを見せた後にカグラが告げる。承知しました、ヒビキが言いかけたところで二人の会話に水を差したのはやはりココノエだ。桃色の頭髪と同色の丸い耳を震わせて、
「何故そんな回りくどいことをするんだ。お前が素直に呼び出せば済むんじゃないのか」
 そんなココノエの言葉に、カグラはヒビキから彼女の方へ視線を移すと、問う。
「どうやって? 誰が伝えるんだ? 言葉や書面で伝えた時点で、あっさりアイツらにはバレるだろ」
 そう言って、カグラは椅子から立ち上がると机を避け、ゆっくりとした足取りでココノエに歩み寄り、言葉を続ける。
「呪縛陣とか言ったか? ツバキのあの眼……多分『観測(み)』られてるぜ。だから小鳥ちゃんには『自発的』に、此方の籠に入ってもらわなきゃ困るんだよ」
 と、どこか悪党のそれにも近い台詞を吐くカグラ。実際、謀反を起こそうとしている時点で彼らは彼女にとっての『悪』になっているのだろうけれど――。
 どうせ罠ってバレバレなんだし。ニッと笑って言う彼に、納得したようにココノエが頷いたところで――またヒビキが口を開く。今度は自身の上司でなく、ココノエにだ。
「ココノエ博士。貴女の『対干渉』」用の装置を一部拝借し、現在コロシアム内に設置中です」
 淡々と感情もなく告げられる内容にココノエがヒビキへと視線を向けると、青年は続けた。
 フルパワーで使用すれば、約一時間程、彼らの『観測』を誤魔化せる計算となっています、と。それを告げる彼に今更ながら感心を覚える彼女――だったが。
「あ、無傷でお返しするのは難しいと思いますので、悪しからず」
 思い出したように目を少しばかり丸くして語る彼に、一気にココノエの気持ちが落ちる。青筋を浮かべスゥッと目を細めてヒビキを睨みつける。一言。レンタル料は高いぞと。
 しかしそんなココノエの態度に怯えることもなく彼らは平然とした態度で、カグラなんかは茶化すように居候代にツケといてやるよ、そう語るのだ。
「あと、マコト=ナナヤには四人ほど付いていますが……いかがしますか?」
「あー、そっちは後で俺がふらっと行ってくるよ。確認したいこともあるし」
 それにココノエが何か言おうとするよりも早く、くだらない会話に時間を費やさぬようにヒビキがカグラに話しかけると、怒りを見せていたココノエの表情が不思議そうなものへと変わった。
「何だ、もう見つけていたのか。知らせてくれればテイガーに追わせていというのに」
「ウチの組織なめんなよ。いくらマコトでも、一日あれば居場所くらい掴める。捕まえるのはまぁ……ちょーっと難しいけどな」
 意外だと言いたげなココノエに溜息を吐いて、少しだけ自慢そうに語る。最後の言葉に締まりがないけれど。
「とにかくそっちは任せとけ……ってわけで、ジンジン。あと二日だ」
 そしてカグラの視線は、三人の会話を隅で聞くことに徹していたジン=キサラギへと向けられる。それに彼は金の髪を揺らし首肯することで理解を示すと、小さく漏らす。思い浮かべるのはとある人物だった。
「キサラギ少佐? 一体どちらへ?」
 悠然と振り返り、先ほど自身が通った扉の方へ歩き出そうとするジンへ、ヒビキの声がかかる。それを尻目に少しばかり不快を露わにして、けれど彼の昔を知る人物にとってはいくらか棘のなくなったと感じる声で、ジンは問う。
「貴様にいちいち報告しなければ僕は動くこともできないのか」
 困ったようにヒビキとカグラが顔を見合わせる。そういうわけではない。ただ、カグラ達にだって段取りがあるし、地下には彼が追い求め殺そうとする存在も居るのだ。それを知られてはいけないから、下手に今手を出されてしまっては困るから。
「……いや、そういうわけじゃねえさ。こっちにも色々準備があるからあんまし派手に立ち回んなってだけだ。あと地下には絶対に行くな、これは命令だぞ」
 ニッと笑って、しかし最後の言葉だけは真剣な表情に戻って。カグラの台詞にジンはふん、と鼻を鳴らすだけだった。止めていた歩みを再開し、部屋を出る。その背を見てココノエは目を伏せ呆れたような声音でぼそりと漏らすと、かつてカグラの個室であった隣の部屋――今はココノエの勝手な判断によりエレベーターと化してしまったそこに入っていく。
「やはり奴とは反りが合わんな。私も研究室に戻らせてもらう」
 機械音がして、ココノエが地下に下りていくのを確認したところで、ヒビキがやれやれといった様子で零す。やはりキサラギ少佐は相変わらずだ、と。
「そうだなぁ。まぁでも、他人と協力することを考えられるようになったのは、多少なりとも成長したってことだろ」
 腕を組み頷きながらカグラが言う。
 なんにせよ、崩れることのないジンの仏頂面がさらに酷くならないよう気を回さねばならない。それが、ジンがこちらにつく条件だったために。はぁ、と何度目とも知れぬ溜息は今度はカグラの口から漏らされた。
「場所の方は自分が取り仕切りますので、マコト=ナナヤの方はお任せいたします」
 変わらず淡々と告げるヒビキに軽い返事をして、そこでふとカグラは思い出す。ところで、ノエルはどうしたのだと。先ほど地下から上がって、ヒビキに一度任せてから姿が見えないのだ。
「別棟でおやすみになられていますよ」
 問えば、ヒビキはそう答える。少しの間を置いて付け足すのは言わずとも分かっていたことだが、彼女をクズだなんだと罵り忌み嫌う、先ほど出て行ったばかりのあの男――ジンに合わせるわけにはいかないからだ。
 彼がどうして彼女をそこまで毛嫌いするのかは分からない。聞けば、ノエルは攫われた妹にそっくり――否、妹を元にして作られた謂わばクローンの素体であるらしいが。それがどうして嫌うことに繋がるかは分からないけれど、先ほども言ったように彼の機嫌を損ねるのは避けたい事項だった。
「よくできました、五点やろう」
「結構です」
 そんなくだらない言葉のやり取りをいくらか交わす間は、今からやろうとしていることや今後起きそうなことの物騒さも忘れられる気がして。



「あぁ~もう! ノエルったらどこ行ったのよぉ! って、ここは……」
 最初こそ自身と一緒に行動していたはずが、いつの間にかはぐれてしまっていた親友を探すため、彼女は息を切らして走っていた。そしてふと、景色を見て思い出す。
 それは、彼女がカグツチでハザマに連れ去られ利用されそうになった件の少し前の出来事だった。今や壊滅してしまった、イカルガの中心ともなっていた第五階層都市、イブキドの跡地。彼女は一ヵ月前にもここに来ていた。
「懐かしいなぁ……」
 漏らす。あそこで見た光景は酷く、それを見つけてくださいとばかりに任務を押し付けてきた彼に関わる少女も、ノエルも、危険だと教えようとして、助けてくれたレイチェルに止められたのだ。何故だったかはマコトには分からなかったけれど、ひどく悲しげな表情をしていたのは今も鮮明に覚えている。
「でも、なんで止めたんだろう……それがなければ、もしかしたら」
 もしかしたら、止められたかもしれない。そう思うマコトだったけれど、他の事象ではマコトがそれを実際に伝え、そしてハザマに抗議したこともあった。そうして最終的にマコトが酷い怪我を負った事象もあった。けれど、それら全ては無駄となっていたから。少しでも、少女らの悲しみが減るように、少しでも犠牲を出さないようにというレイチェルなりの気遣いはあった。
 それに――あれで、存在するはずのなかった彼女ユリシアがどう反応するかも、結果を予測はしていたけれど知りたかったという節もあった。少しは、疑問を持ってくれるかもなんていう期待は裏切られたけれど。
「ノエル……」
 親友の名前を小さく口にして、心配に眉尻を垂れる。彼女はどこで何をしているのだろうか、ツバキにもしかしたら会っているのだろうか。それとも捕まってしまっているだろうか――。
 考えれば考えるほど、考えが嫌な方向へ傾いていく。そんなマコトの背中に、声がかかった。
「探しましたよ……。マコト=ナナヤ少尉」
 聞き慣れた声に思わず振り返って、マコトは彼女の名を呼ぶ。紅いロングヘアの少女、ツバキだった。
「ツバキ!! もう、探したよ! どこにいたのさぁ?」
「……『探した』ですって? 探していたのは私の方よ、マコト=ナナヤ少尉。それにしても、情報通りね。驚いたわ」
 そこに居た少女の瞳は暗い紅をしていて、細めた双眸はひどく冷たく――鋭い。親しみを込めて名前で呼んできた彼女はそこには居なく、フルネームで呼ばれた彼女は少しの悲しみを覚えた。
 けれどその悲しみも今は抑えて、必死に彼女はツバキへと呼びかけた。
「お願い、ツバキ。統制機構を抜けて一緒に行こう。あそこは絶対おかしいよ!!」
「面白いことを言うわね。その言動は『反逆罪』に当たるわ」
 マコトの真剣な様子すらも彼女は冗談だというように切り捨てて、冷ややかな声で問う。何がおかしいというのかしら、と。
 問われれば弾かれるように、まくしたてるようにマコトは語った。このイカルガで昔起きた内戦のことも、統制機構の態度も、帝のことも。
 表向きでは『イカルガ内戦』は、イカルガ側が仕掛けた独立戦争のようになっているが、統制機構が起こした戦争であること。当時は確かにイカルガ連邦として独立自治を認めてほしいと訴えてはいたが、決して戦争なんかではなく話し合いで解決しようとしていたのに、統制機構は『帝の意思により』とたったそれだけで戦争を起こしたこと。
 ツバキの大嫌いな争い、戦争、悲しみと血と死しか生まれない戦争を。
 その時の帝の言葉が、『より多くの死を』だったことを。何度も何度もイカルガが停戦を申し入れても帝のためだと聞き入れなかったこと。
 いかに帝が、統制機構がおかしいのか、彼女は訴えた。口を開くツバキ。理解してくれたのだろうか、思うマコトにかけられる言葉は、
「それがどうかしたのかしら。それにマコト……あなた、何か勘違いしているわね」
 ツバキの『勘違い』という一言にマコトが眉根を寄せると、ツバキがその双眸を細める。黒い十六夜の帽子についた目が代わりに冷たくマコトを射抜いていた。ゆっくりとした口調で、彼女は語る。以前のツバキとは、明らかに雰囲気が違った。
「統制機構。いえ、この世界における全ての『命』は帝のために存在しているのよ」
 そんな、命を、個を大事にしない発言だった。驚くマコトを他所に、言葉は続けられるが――その口調はやがて少しずつ、少しずつツバキらしさを失いはじめていた。まるで、誰かに口を操られているかのように。
「その命が帝のために使われたのだとしたら、それは光栄なことだと思え。たかが虫けらごときの死で何を言う」
 まるで、別人のようだった。まるで、知らない誰かのようだった。居ないはずの存在が、見えないはずの存在が重なって見えるようで、ツバキがツバキじゃなくなっているようで。
「マコト=ナナヤと申したか? そうだ『余』の望みは神羅万象『死』のみだ」
 事実、ツバキの口が紡ぐその言葉は、マコトを知らぬ者のように扱う台詞を紡いでいて、思わず誰だと、マコトが漏らす。しかしそれをなかったことのように無視して、彼女は続けた。開かれる瞳。
「これが最終勧告よ。統制機構に戻りなさい、マコト=ナナヤ少尉。でなければ制裁も辞さないわ」
 そんなツバキの言葉に、しかし待ってと言って、マコトはもう一度――ツバキだよね、と確かめるように言葉をかける。
「ええ、ツバキよ。おかしなマコトね。旧友のよしみで多少の手心は考えていたけれど……勧告に従わないのであれば、今ここであなたを……断罪します!!」
 不思議そうに答えて、そしてツバキはその問いを自身の勧告に応じないものだとして、叫ぶ。まるで繋がりを、断ち切るかのように。迷いなく彼女は蛇腹状の刃を展開して、マコトに襲いかかった。
 対するマコトは躊躇が残っていた。親友と戦いたくなどなかった。
 反応が遅れ、躱すも肩を掠める。そこを狙うようにしてツバキが開いた距離を詰めるように駆け短剣を振り回すのを、腕につけられた十字のトンファーで防ぐ。そこで一発拳を入れることもできたはずなのに、マコトはそれをできなかった。分かって欲しいのに、それを物理的にぶつけることに恐怖を覚えていた。
 迷いのあるマコトには次々と繰り出される攻撃を防御するのが精いっぱいだった。
 それは、マコトの得意な接近戦に持ち込まれても同じだ。ツバキがマコトを掴み上げ放ると、腕につけていた盾が外れ、本のようにぱらぱらと開かれる。術式で宙に拘束されたマコトはただ成す術もなく鞭のような蛇腹状の刃に何度も殴りつけられ傷を肌に生む。最後には足下の盾から飛び出た刃に突き飛ばされ――少女はうめき声をあげた。それでも尻尾をクッションにして打ち付けられる衝撃を和らげ、そのまま後ろに転がった。けれど立ち上がることはなく、伏せたまま。
「っぐ……はぁ、っはぁ……! ツバキ……」
 ただただ悲しそうにツバキを見つめるマコトに、もういいでしょうとツバキは声をかけ、首を振った。これ以上は無駄な戦いだと、さっさと従いなさいと。それでも、マコトがその意思を見せないから、ツバキは剣を構えた。
「ああ、もういい。充分だ」
 けれど、それは第三者の声によって制される。二人の視線が、ツバキの背後からやって来た彼に向けられる。
「ムツキ大佐、どうしてここに」
 疑問の声に答えることはなく、彼――カグラ=ムツキは快活に笑う。
「いやいや、お勤めご苦労さん、ツバキ=ヤヨイ少佐。マコト=ナナヤ少尉の身柄は此方で預かっとくから、貴官は引き続きラグナ=ザ=ブラッドエッジ討伐に向かってくれ」
 ツバキの眉がひくりと動く。まだ、ラグナをカグラが捕まえていることも、マコトを匿っていることも知られていないはずだが、背中に嫌な汗が浮かぶ。
「それは、どういう意味でしょうか」
「言葉の通りだよ。おら立て、マコト=ナナヤ少尉」
 ツバキの問いに答えながら、彼はマコトを振り返り手を差し伸べ、引っ張り起こすのをツバキは特に咎めることもなく見ていた。その代わり、
「大佐自らが引き取りに来るなんて……総領主のお仕事は、随分とお暇なようですね」
 普段のツバキであれば礼を欠くことを気にして言わないだろう皮肉を彼女は口にする。それに目を丸くしそうになるも笑みを崩さぬまま、カグラは語る。優秀な部下が多いから楽をさせてもらっていると。
「んで、たまには衛士としての仕事もしなきゃと思ってな」
 それに、帝の命は絶対だろうと、勅命書をカグラは突き出した。
 すぅ、とツバキの眼が細められる。確認するように何度も上下に目を動かして、最後にじぃと見つめるのは帝の判が押された場所だった。
「この判は間違いなく帝のモノ……しかしムツキ大佐。これは間違いなく帝のモノなのでしょうか?」
 問う、ツバキ。彼女が違和感をおぼえるのは何故か、カグラは何となく察していたけれどそれを言うことはなかった。少しばかり困ったように、そして窘めるように眉を下げて、
「あらら、お前がそれ疑うの。偉くなったねぇ。俺は帝の『勅命』を受けてここに来てんだ。ツバキ=ヤヨイ少佐。自分らが言ったこと、思い出せよ」
 語る台詞が指すのは先日、カグラが初めてユリシアに会った日のことだった。
 『帝の勅命は如何なる事柄よりも優先される』
 そう淡々と口にして、彼女は細めていた目を伏せる。
「そ、だからこうして『反逆者』の回収。つう訳で、じゃあな」
 立ち上がらせたマコトを一見逃がさないように、けれど支えながら彼は言うだけ言って、手を掲げて去っていく。
 その背に向けてかけた言葉は、ツバキの精神をもう半分ほど食らわんとしている帝のものなのか、それともツバキ自身のものだったのかは誰にも分からない。

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