第二章 潔碧の昼

 テルミは夢を見ていた。
 本来精神体であるテルミには、夢を見るための脳という機関は存在しないし、器たちもまた、基本的に眠っても夢を見ることはない。
 しかし、テルミは今確実に夢を見ていると自覚していた。
 まどろみの中、目を開けた先に映るのは、蒼い光のはしる巨大なモノリスだ。
 てっぺんには大きな羽根で出来た『繭』のようなものが鎮座し揺らめく。
 生ぬるい風、漂う鉄の臭い。地面を踏む感触。見下ろせば、打ち合った刃の数より多い足跡が血の上にしっかり刻まれ。
 全てが鮮明に映し出されていた。
 しかし、これは夢だ。目を覚ませば消えてしまう儚いもの。
 だけれど、確かにそれは存在した世界の記憶であり――一つの可能性の世界だった。
「まだ、終わりじゃ……ねえぞ……ッ」
 耳に届く苦しそうな声。聞き慣れた男のものだ。テルミにこの上ない憎しみと殺意を向け、テルミの存在を強固にしている人物。
 その人物を、テルミは嫌いではなかった。思考が手に取るように分かるほど単純な生物で、さらにはテルミにこの上ない殺意と憎しみを向け、存在を強固にしてくれているのだ。
 テルミ。そう叫ぶラグナの声を心地よい音楽のようにして。
 この身にこびり付いて忘れられない記憶の海の中、テルミはまた目を閉じた。
 ばたばたとコートのジャケットがはためく音も、必死にもがく彼から発する衣擦れの音も、全てが遠くなっていく。
 最後まで振り返らなかったテルミの口角は、ゆるりと持ち上がっていた。
「――ん。……るみ、さん」
「あー、あぁ……?」
 かけられる甘い声に、やがてテルミの意識は浮上した。
 見れば自身の顔を不思議そうに覗き込む少女の顔があった。
 一瞬訳が分からなくて怪訝な顔をして――思い出す。
「あぁ、時間か。ありがとさん」
 彼女、ユリシアに起こすように頼んだまま仮眠をとっていたのだ。
 夢の事に気を取られすっかり忘れていたが、彼女は約束を守ってくれたようで。
「はい、どういたしまして、です」
 双眸をすっと細めて頷き、笑顔の花を咲かせる少女の金髪が揺れる。
 無駄に質の高い革ソファから起き上がると、いつの間にか掛けられていた毛布が滑り落ちる。彼女の気遣いだろうか。毛布を見つめて、テルミはぽかんと目を丸くするしかできなかった。
 こういった気遣いをされたことなど、自身に自我が芽生えてからも、その前も、一度だってない。否、優しい女は一人くらい居たと思うけれど――。
「てるみさん?」
 不思議そうに首を傾ける少女に首を横に振って、ソファからテルミは降りた。
 皆忘れてしまう、この度重なる事象の中。何も知らない滑稽な少女を見てテルミは、
「――飯」
 とたった一言。
 彼女の料理は美味しい。前までの不健康な生活に戻れないと思えるほどだ。
「わかりました、ですっ」
 大きく頷くと、彼女は執務室に備え付けられたキッチンへ向かう。
 ぱたぱた、駆ける背中を見送って、テルミは一度伸びをするとソファにまた腰を下ろした。目を伏せ、平和すぎる日常の中思い描くのは――。
 そんなテルミの胸中など露知らず、彼女は先日買ってきた料理本を開く。
 丁度お昼時、綺麗好きなハザマとユリシアによりぴかぴかに磨かれたキッチンの前で彼女は首を捻った。
 今日の昼ご飯は何にしよう。
 じゅわじゅわとフライパンの上で食材が奏でる音色。鼻をくすぐる香ばしい香り。程よく炒められた赤いご飯、乗せられるふわふわオムレツ。
 テーブルまで運び、すっとナイフを入れれば広がってとろりとこぼれ出す中身。
 俗に謂うオムライスだ。食べるのは何時ぶりだろうか。思い出そうとすればいくらでも思い出せるけれど、テルミはそうしなかった。



「もう、居ねぇよな……?」
 ラグナ=ザ=ブラッドエッジは追手から逃れるべく建物同士の陰に身を潜めていた。
 そろりと顔を覗かせて、衛士や賞金目当ての咎追いといった連中が来ていないことを確認すると、胸を撫で下ろす。
 そしてふと思い出すのは、先日テルミに斬りかかった時に見たあの見慣れぬ少女のことだった。
 自身らを育ててくれたシスターを殺し、妹と弟を攫い、さらには自身の腕を斬り落としたあの男――ユウキ=テルミ。
 そんな彼を庇うようにあの矮躯で立ち塞がった彼女がどうしても理解できなかったのだ。
 どうしてだ。あのテルミみたいな奴を、あんな、見た限りじゃ戦闘慣れしていないどころか鍛えてもいないだろう幼い少女が庇うだなんて。
「つか、誰なんだよ……あのガキは」
 否、彼の交流関係など知っても何にもならないし、他にも知らない関係者なんて沢山いるのだろうけれど、どうにも彼女の存在が気になってラグナはそう漏らした。
「――その疑問に、答えて差し上げてもよくてよ」
 気高くも、まだどこか幼さの残る声が背後から聞こえた。
 ゆるりと風が吹き、鼻先を掠めるのは強い薔薇の香りだった。
「どういうことだ、ウサギ」
 勢いよく振り返り、そこに誰も居ないことに驚く。どこを見ているのか、届く声は上から。顔を上に向けると、積まれた木箱の上に彼女は佇んでいた。
「あら、驚かないの。それにしても――相変わらずこんな薄汚いところに居るのね。お似合いよ、ラグナ」
 金糸の髪を頭の左右で括り、彼が呼んだ動物を思わせる黒いリボンを二つ飾り付ける。服はたっぷりとしたゴシックロリィタ調の黒いドレス。
 まるで童話から出てきたような可愛らしくも美しさを兼ね備えた少女は、いつも通り尊大に語った。
 ラグナの問いを無視するように。
「――うるせぇ、それよりさっきの言葉はどういう意味だ」
 普段のラグナであれば、彼女――レイチェルの言葉に怒りを示したことだろう。
 けれど、多少の苛立ちこそ見せれど彼は静かに問うた。
 それに驚いたように、彼女はルビーの瞳を丸くして、それから面白くなさそうにふいとそっぽを向くと。
「それが人に教えを乞う態度かしら」
 つん、とした態度でそう投げかける。
「あー、はいはい、分かりましたよ。先ほどの言葉はどういう意味ですか、教えてくださいレイチェル様」
 舌を打ち、ラグナは面倒くさそうに後頭部を掻いて半ば投げやりに返す。
 少しだけ不満が残るが、引っ張るのもつまらないと判断したのだろう。レイチェルは足を踏み出し木箱からふわりと飛び降りる。コツンと二つの靴音が狭い路地に反響した。
 そして目を伏せ、口を開くと。
「――まぁ、私もよく分かっては居ないのだけれど……」
 と、前置きをした。
 一体どういうことだ、とラグナは言いかけようとして、彼女の表情を見て息を飲む。
 悲しそうだったのだ。そして、寂しそうだったのだ。
 レイチェルの眉は垂れ下がり、唇は震えていた。だから言おうとした言葉を押し込んで、彼女の言葉の続きを静かに待った。
「彼女は……」
 やがて、レイチェルは口を開く。言葉を紡ぐ唇の動きがやけにゆっくりに見えた。
 彼女は、何なのだろうか。逸(はや)る気持ちを抑え、続きを待つラグナだったが――。
「やっぱり、今は止めておくわ」
「おい」
 散々勿体ぶって結果やはり止めるというのは、あまりにも酷ではないだろうか。
 思わず声を出さずにはいられなかったが、深く溜息を吐く彼女の表情からして、語る気は一切ないことをラグナは理解した。
 ラグナを他所に、レイチェルは踵を返そうとする。そんな彼女をラグナは引き止めることはなく、ただ一言問うた。
「……はぁ、ったく。最初に教えてあげても~なんて言ったくせに」
「さぁ、何故かしらね。『教えても良い』とは言ったけれど、誰も『教えてあげる』とは言っていないわ」
「へいへい、さいですか」
 その言葉を最後に、彼女はすうと開いた空間の歪みに足を踏み入れる。薔薇の香りが、また鼻をくすぐり――振り向いた時には、彼女はもう居なかった。
 彼女の言葉に少しだけげんなりとしながらも、ラグナは先ほど彼女が見せた悲しくも寂しそうな表情を思い出した。
「でも、ウサギがあんな顔するなんて……」
 きっと、余程のことがあるのだろう。言いかけて止めたりするほどには。
 顎に手を添え、考えようとしたとき。
「見つけたぞ、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ!!」
「うわ、やべっ」
 青い制服に身を包んだ一人の統制機構衛士の声に、慌ててラグナは駆け出した。



「あの」
「……なんだ」
 それは、テルミらが食器の中身を殆ど平らげた頃だった。少女が些か言いづらそうに、口を開き、かけられた声にテルミが顔を上げ尋ねた。
「わたし。……その、おべんきょう、したいとおもったんです」
「勉強?」
 一体、何の勉強だというのだろうか。彼は思わず問い返す。
 それに首肯して、ユリシアはテルミが否定の意思を見せないのを良いことだと受け取って、柔らかな笑みを浮かべた。
「はい。だって――」
 彼女が言うにはこうだった。
 ここの常識も、何もかも知らなくて、見るものが全て新鮮なのはいいけれど、知らな過ぎても迷惑をかけるのではと思った、と。
「それに……いえ、やっぱなんでもない、です」
 言いかけて、止めたユリシアにテルミが首を傾げるが、彼女の事だからきっとくだらないことなのだろうと結論付けて深く聞くことはしなかった。
 そして、彼女からの要求は好機かもしれないとテルミは思う。
 知りすぎていても邪魔になるだけだが、何も知らないよりは常識的な知識くらいは知っておいた方が今後のためになるだろう。
 自身から言う手間も省けたし、これは良いチャンスだと。
 暫し黙り込んでいたテルミ。途中までは考えていたのだが、後半はちょっとした意地悪だ。彼女の不安を煽るための。
 案の定、黙るテルミに笑みを崩して不安げな表情を見せるユリシア。
 それを見て、やっとテルミは口を開く。
「いいぜ、その方がこっちにも、ユリシアにも良いと思うしな」
 それなら、さっさとその中身を片付けろ。
 指差して指摘するのは、器の中に未だ半分ほど残るドリアのことだ。
 それに気付いたユリシアは、慌ててスプーンを使い口にドリアを運ぶ。
 少しばかり冷めたそれは丁度食べやすい温度で、しかし最初程チーズがとろけていないため残念といえば残念である。
 せかせかと口にドリアを詰め込む作業を繰り返した後は咀嚼し、飲み込む。
 それを最初よりもハイペースで何度か重ね、器の中を綺麗に腹に収め、へらりと笑った。それから彼女はカチャリとスプーンを器に置くと立ち上がり、テルミと自分の皿を持ってキッチンへ向かう。
 その背中を目で追って、テルミは頭の後ろで手を組んだ。溢れる欠伸を噛み殺して一言彼は彼女に投げかける。
「まぁ……今度、本でも買ってきてやるよ。色々」
 自分が直々に教えやってもいいのだが、できれば質問されれば答える程度に収めたい。一応蹴ることはある程度許されているが、他の仕事だってあるのだから。
 そういった考えから出したテルミの台詞に、ふふっとユリシアは笑い声を漏らすと礼を述べる。
 サァサァと流れる水の音、食器がたまにカチャリカチャリぶつかる音。
 食器を洗い終えたのか、きゅっと水を止めて彼女は頭上に干してあった白の布巾に手を伸ばす。
「んんーっ」
 しかし、大人が使用することを考慮して作られたキッチンでは、身長的な問題で届かない。その様子を暫く窺っていたテルミが、はぁと深く溜息を吐いて仕方ないといったように椅子を引いて立ち上がる。
「……あ」
 踏ん張り、必死に手を伸ばす彼女の後ろから歩み寄り、ひょいと布巾を手に取って少女に渡す。彼女から漏れる間抜けた声、後に少しだけ恥ずかしそうに、
「あ、ありがとう……ございますです」
つつ、と湿った指の腹で頬を撫でながら彼女はそれだけ言うと、洗い終わってピカピカになった食器を拭きはじめた。
 拭き終れば便利な食器乾燥機に慣れたように並べて。
 一連の流れを見て、テルミはぽつり。
「……ステップも買わねぇといけねぇな」



 ちゃぷり、ちゃぷり。水面が揺れる。生まれた波紋は広がっては消えを繰り返し。
 立ち上る湯気、温かな湯の抱擁。白く濁った湯がじんわりと冷えた身体を温める感触。自然と漏れる深い吐息。
「あぁ、やはり湯はこれくらい熱い方が良いですねぇ」
 一気に溢れる日頃の仕事による疲労。全て受け入れてくれる浴槽は今、彼にとって最高の空間だった。
 しかし彼は真っ白なバスタブを支える四本の脚を見ると、顔を顰めた。
「でも、猫(けもの)のそれを模した脚だなんて悪趣味極まりないですね。これはいい加減レリウス大佐にでも言って変えてもらいませんと」
 上官で、かつ自身が話せる相手となるとあの何を考えているか分からない仮面くらいしか思い浮かばない。
 彼は、猫が嫌いだった。そしてアレルギー持ちでもある。故にこれは変えてもらわねば――そうハザマが零した時だった。
「あの、し、しつれいします、です」
 ガラリと浴室の戸を開け入ってくる人影があった。もわりと立ち込める湯気で上手く窺えない向こう側の人物に一瞬誰かと思うが、声と体格ですぐに誰か理解する。
「えぇ、はい」
 一人のゆったりとした時間を食いつぶすような来訪者に最初は気付かれない範囲で顔を顰めたが、すぐに意味もなく笑みを浮かべてハザマは彼女を受け入れた。
 シャワーの音が少しの間鳴って、それからポタポタと水を垂らしながら彼女がこちらに歩み寄る。
 そして白い足の指先が湯に触れ――一度引っ込められた。熱かったのだろう。
 しかし、生まれる波紋の中心にもう一度足を突っ込んで、そのままゆっくりと脚を湯の中に滑り込ませ、しっかり浴槽の床に足を付けた後はもう片方の脚も。
 両方が入りきったら、丁度彼の前に立つ形となる彼女の姿に思わずハザマは目を瞠る。
「……な」
 前を、タオルで隠していなかったのだ。
 頭の上には髪が浴槽に浸からぬよう作られた大きなお団子。主張する鎖骨はどこか大人っぽさを生む。小ぶりな胸、肋骨と骨盤に収まりきっていない内臓でぽこんと出た腹。
 なめらかな腰のライン。太過ぎず細過ぎずの柔らかな太もも。何故かじっくりと見てしまって、綺麗な体だと思う。
 そんな脚の付け根には――そこまで見そうになってハザマは首をゆるゆると横に振ると顔を逸らし、言う。
「さっさと浸かってください」
 羞恥に顔を赤らめるなんて人間性こそ彼にはなかったが、それでも一応子供なりに、道具なりに、相手は女なのだ。裸を惜しげもなく晒していれば顔も逸らす。そういうことも教えないと、と思うハザマであった。
 そういったハザマの胸中など露知らず。見つめていたかと思えばそんな反応をする彼に不思議そうに首を傾けつつも少女は頷いて湯に浸かる。
 二人が入っても狭く感じないのは彼女が小さいからなのか浴槽が広いからなのか。
 膝を曲げて肩までしっかり。白い湯で身体が多少隠れ、ハザマはやっと安堵に溜息を吐いた。彼女は少しばかり常識が欠如しているところがあると、ここの所ハザマは思う。
 料理をすればきちんとレシピ通りに作るし、言われたことはきちんとこなす。けれどこういったところだとか、最初なんかトイレの仕方まで知らなかったのだ。
 一体何故、そんなので会話できていたのかというほどに彼女は色んな知識が欠けていて、見た目よりも幼いこの少女にハザマは少しばかり頭を抱えていた。
 湯を両手の平で掬い上げると、さらさらと零れ落ちる。
 それを見つめながら、彼女は口を開いた。
「あの……めいわく、じゃないですか」
 問い。自身が居るのが迷惑でないか、そんな問いだった。それを聞いたハザマは一度他人からは開けているのか閉じているのか分からない細い目を見開いた。
「……迷惑、ですか」
 ふむ。興味深そうに、顎に骨ばった親指と人差し指の先を添えて、彼は言葉を復唱する。不安げな少女の表情。
 やがて彼は顔を上げると一つ頷き、
「そうですね。でも、ユリシアが一人でシャンプーできないのは事実でしょう?」
「うぐっ……」
 こてり、ハザマが小首を傾ける。途端、ユリシアが呻いた。彼女は一人でシャンプーができない。それは事実だが、突かれたのが少しばかり悔しいというか、なんというか。
 シャンプーは怖い。目に泡が入ったらと思うと心配だし、髪が長いから洗いづらいし確認のために目を開けた途端――なんて可能性も高い。
 それに得体の知れない液体を捏ねたら泡になるだとか、そんな泡で洗うだなんて。
 付け加え最初なんかやり方すら知らなかったわけで。これではいけないと考えたハザマが代わりに洗ってやっているのだ。彼女が早く一人でできるようになることを祈りつつ、彼は自身の肩にゆるりと湯をかけた。
「……まぁ、今は仕方ないですよ。記憶もないうえにまだ子供ですし……」
 漏らす言葉は妥協。いくら都合のいい道具でも万能である方が不思議なのだから。
 別に気遣ったつもりはなかった。だから、そのうちできるようになれ……と付け足そうとしたところでユリシアが紡ぐ言葉。
「えへへ、そう……ですね。ありがとうございます、です」
 ちょっとだけ教えてやった言葉を馬鹿みたいに使って拙い喋りで礼を言う。
 その言葉と、困ったように眉尻を下げた笑みに出そうとした言葉が詰まって……飲み込まれた。
 その顔があまりに間抜けだったのだろう。
 ユリシアが、頭を横に傾ける。頭の上の大きな黄色いお団子がそれに合わせて揺れた。
「どうか、しました、ですか?」
「あぁ、いえ、何も」
 ハッとしたように、ハザマは首を振る。
 別に、何を思ったわけでもないのに、何故こんな反応をしてしまったのだろうか。
 礼を言われるようなことを言った覚えもないのに、ありがとうと言われただけで……。
「さて、そろそろ洗いましょうか」
 そう言って、ハザマがゆっくりと立ち上がり、それに続くようにしてユリシアも、苦い顔をしながらざばりと湯から上がった。
 彼の青白い肌も、ユリシアの柔な白い肌も、上気してほんのり桃色に染まっていた。
 ハザマの執務室に設けられた風呂は今は亡き日本の風呂を参考にしていて、浴槽と洗い場が別々になっている。
 二つ置かれた風呂椅子に各々が座り、ハザマがシャワーを手にする。その間にユリシアがお団子をほどいて、さらりと髪が背中に流される。
「かけますよ」
「は、はい」
 いきなりかけては可哀想なので合図をすると、強張った声が返ってくる。
 その声の方が、ハザマの胸の気持ちいいところをくすぐるから好きだった。それを表に出さないようにしながら、そっとシャワーの湯を頭にかける。
 ひゃっ、と漏れる声は小さな悲鳴だ。
 その声を快い音楽のようなものに感じながら、彼女の長い髪を丁寧に濡らしていく。一房ずつ手にとって、根本から先までしっかりと。
 ふるふる、小刻みに震える少女の肩に時折シャワーを当ててやると、面白いくらいびくりと跳ねるのがたまらない。
 手を伸ばし、覆いかぶさるようにして棚からシャンプーを取って、手の平にとろりとした液体を出す。
 それをよく擦り、泡を作って、そぅっと彼女の髪に触れる。
「目、瞑っていてくださいね」
 こくこくと頷く少女の髪を、頭皮を指の腹を使ってゆっくり、しっかりと洗っていくと、彼女の金髪は白い泡に包まれていく。
「流しますよ」
 合図。そして、シャワーから湯を出し、泡を流して――。
 彼女の髪は長い。下ろした状態で座れば床に付いてしまうほどに。素体達もそれくらい長かったなぁだとか、邪魔ではあるがこの艶々とした髪を切ろうという気にはなれないだとか、色んな事を思いながらリンスも済ませて、彼はふぅと溜息を吐く。
 髪をタオルで巻いてやり、
「体は自分で洗ってくださいね」
 そう言って別のタオルを渡してやると、素直に彼女は頷く。初めての時は体すら洗い方を知らず、呆れたものだけれど。流石にそれくらいはできるようになった。
 鼻歌混じりに泡のついたタオルで体を擦る少女を横目に、ハザマも自身の髪や体を洗い始めて。
「……せなか、あらってもらえます、ですか?」
 そんな少女の声がかかる。
 顔を上げて見れば、少女の背中は下の方こそ洗えているものの、ところどころきちんとできていない箇所があって。
「はぁ、分かりました」
 彼女からタオルを受け取り、背中を洗ってやる。
 嬉々とした彼女の表情に、ハザマは何が嬉しいのかと疑問を抱く。自身もやってもらえば分かるだろうか、と思いつくほどに。
「じゃあ、ユリシア。代わりと言ってはなんですが、私の背中も流してもらえますか」
 彼女の名前を呼べばぱっと少女は振り返る。まるで飼いならされた犬のようだ、とハザマは思いながら彼女の返事を促すと、少女は不思議そうに首を傾け、
「え、でも」
 それもそうだろう。何故ならハザマの背中は既に彼自身が洗っていた。けれど、それでもにこやかにハザマが笑っていれば彼女は頷いて、
「わかりました、です」
 と一言。ハザマの体を洗っていたタオルを取り、擦り。
 最終的には両方の体についた泡を流して――。
 けれど、やはり彼女が何故嬉しそうだったのかハザマには理解することができなかった。そもそも、彼女が何故自身らと居るのを喜ぶのかすら分からないのだから。
 風呂場から上がり、体に付着した雫を手早く拭って、湿気で貼りつくのを鬱陶しく思いながら服を着る。
「――さて、と」
 ベッドメイキングはとうに済ませたし、ユリシアは水色のベビードールを揺らしているし、髪も乾かした。
 一房ずつ丁寧に、先まで、サラサラとした髪を櫛で梳いてやれば彼女は心地いいのか欠伸を一つ。
 部屋の隅、ベッドへ彼女が先に座り寝転がると広がる金髪。
 次にハザマがベッドに寝て、シーツをかける。前の器――カズマの時こそ悩んでいた高身長ゆえに足がはみ出るなんてこともなく。
 ユリシアに背を向けてハザマは、元から開けているのだか分からない双眸を伏せた。



   2


 昼下がりのこと。ユリシアたちは今日も外へと出ていた。
 ユリシアの勉強用に本を買うためだ。
 そして今、ちょうど買い終えた数冊の本が入った袋を胸に抱き――帰ろうとした時であった。
 ゆるりと風が吹く。薔薇の香りが彼女らの鼻を掠めた。
「……チッ」
 テルミが、舌を打つ音が聞こえたかと思った時。
 舞い降り立つのは一人の少女。
 高さのある靴を履き、たっぷりとしたゴシックロリィタ調のドレスを纏って、頭の左右では長い金髪をくくっている。
 吸血鬼であり、傍観者。そう、彼女こそレイチェル=アルカードであった。
 レイチェルが伏せていた瞳をゆっくりと開ける。
 睨み合うテルミとレイチェル。鋭いテルミの瞳と、レイチェルの冷めた紅いまなざしが交差して、ユリシアは戸惑いを見せる。
 それから、彼女は思い出す。
「――あ、このまえ、の」
 カグツチに到着したばかりの時に見た少女。テルミに、関わるなと言われて以来会う事のなかった人物。
 テルミが、忌々しげに再度舌を打つ。
「クソ吸血鬼」
 何故、こんな時になって現れるのか。せっかく順調に事が運んでいたというのに。
 それでも、まだ大変な時じゃないだけありがたいとも考えたけれど、一生会わないに越したことはないから。
 テルミが、ぽつりと零す罵倒の言葉。
 しかしそれに動じた様子もなく、レイチェルはユリシアを見た。
「貴女はいつまで、こんな男についているの?」
「……え」
 レイチェルは問うた。
 いつまで、だなんて。
 突然の問いにユリシアは戸惑いの声を漏らす。
 そんなの分からないし、ずっと一緒に居るものだと思っていた。楽しいし、それが自身にとっていいことだと――。
 それを制すように、テルミが腕をユリシアの前に突き出して。それが余計にユリシアの中に疑問を生む。
 彼女は誰なのか、どうして二人ともそんなにピリピリしているのか。悲しくなって、眉尻が自然と垂れ下がった。
 彼女の問いへの答えは未だ出せぬまま。
 見かねたレイチェルが、はぁと溜息を吐く。
「……そう、今はまだ分からないのね」
 でも、と付け足して彼女は一度目を伏せると、再度口を開く。
 ずっとその男についていたら、いつか、後悔すると。
「いくら、『あなた』の判断であっても」
 それだけを言うと、レイチェルはテルミを睨み付けた。それまで手で制すことこそあれど黙っていたテルミが、不機嫌そうにポケットに手を突っ込み、一言漏らす。
「……んだよ」
「――いいえ。いつか、貴方は消してあげる。それまで待っていなさい。……今は、様子を見に来ただけだから」
 ゆるり、首を横に振りレイチェルは語ると、くるりと一度回る。
「っぶね」
 途端、テルミの居た箇所に落雷がはしる。雲一つない空だというのに。
 間一髪避けたテルミの足元のコンクリートは焦げていた。
 文句の一つでも言おうとテルミが顔を上げた時――。
 最初の時のように、風が吹く。薔薇の強い香りがしたかと思うと――彼女は黒い靄に包まれ、消えた。
「なんだったん、でしょう」
 ぽつり。ユリシアが零す。テルミにもさっぱりだった。何故、彼女が自身たちの前に現れ問うだけ問うて消えたのか。
「……気にすんな、行くぞ」
 そう言った言葉は自身に対してか、ユリシアに対してなのか。
 テルミはユリシアの手を引っ掴んでずんずんと進みだす。
 きょとん、と初めて握られた手を見つめ――ユリシアは先ほどの彼女の問いよりも、その手の方が大事だったから。
「はいっ!」
 だから、この握った手を守りたいと、先ほどのような怖い人達から守りたいと。ここで彼女は思う事になる。少女はテルミ達のことが大好きだった。

 ある日せかいに、おおきなくろいかいぶつがあらわれました。
 かいぶつはせかいをのみこもうとしてしまいます。
 そして、たくさんのひとたちがかいぶつにたべられてしまいました。
 このかいぶつのことを『くろきけもの』とひとびとは呼び、おそれていました。
 そこでたちあがるのは、六人のえいゆうです。
 えいゆうたちは、ぎじゅつをはってんさせ、のこったひとびとをみちびき――。
 長いたたかいのすえ、とうとう『くろきけもの』をたおしました!
 めでたしめでたし。
「……この、はってんさせた『ぎじゅつ』って、なんでしょうか」
「あ? あのヒス……んん、まぁ、術式だよ術式」
 この世界の歴史が描かれた絵本を手に、ユリシアが問う。
 それに答えるテルミは一瞬、かつて自身に精神拘束をかけた女のことを思い出しながら――言いかけそうになって止め、問いへ答えを返した。
 術式。
 この世界、この時代での生活の基盤となっており、六英雄として活躍した大魔導士ナインと、テルミの知識により生み出されたもの。
 一見魔法に似ているが、黒き獣から発される魔素をエネルギーにして発動し、また魔道書も必要になるそれ。
「じゅつしき……ですか」
「そう、術式。それくらい知ってんだろ」
 流石にそれは常識的な知識だ、子供でも術式くらい知っているはずだ。
 しかし、彼女は。
「えと、じゅつしき……って、なんですか」
 そうだ。彼女は常識的な知識が欠如しているところがあった。
 そういえばそうであったと溜息をつき、呆れたようにテルミは教えた。
 術式が何であるのか、どうやって作られたのか。
 何故そこまで詳しいのか疑問に思うこともなく真剣にユリシアは頷いて聞いていた。
「まどうしょ……でも、しょうめいに、本なんて」
「魔道書っつっても要は術式を記したものだから必ずしも本の形をしてるとは言えねぇんだよ」
 良い質問だと前置いて、ユリシアの問いに人差し指を立てテルミは語る。
 興味深そうに眼を輝かせる少女を可愛いだなんて思う事こそないけれど、こうやって素直に自身の話を聞いてもらえるのは心地良いだなんてテルミは思う。
 きらきら、と蒼の瞳が煌めく。
「そういえば――ユリシアの術式適正値は測ってなかったな」
 ぽつ、とテルミが漏らす。
 術式適正。いくら魔法より沢山の人間が使えるようになっている術式とはいえ、向き不向きなどがある。それを数値化したのが術式適正値であり、衛士になるため士官学校に入った人達は皆測ることとなっている、のだが。
 士官学校に入るわけでも、衛士になるわけでもなく保護されたユリシアはソレを測ったことがない。
 別に、測らなくても問題はない。けれど、色んな事を教えるためには測っておいた方が色々楽だろうから。
「……今から測りに行くか」
 レリウスの所へ行けば測ることができるだろう。そのための道具――本来士官学校にしかないはずのそれだが、持っているはずだ。
 何故なら士官学校を作ったのは――。
「いまから、ですか?」
 ユリシアが問う。
 確かに昼ご飯は食べ終わったし、特に今日は用事もない。ついでに今日の昼ごはんはキノコとほうれん草のクリィムパスタだった。
 だから別に行ってもいいのだけれど、唐突ではないだろうか。
「いいんだよ、アイツはどうせ暇だし」
 否、レリウスはレリウスなりに仕事もあるだろうがもう一人の大佐に比べればマシというか、そもそも『あの』技術大佐に仕事を頼む物好きなんてなかなか居ないから。
「……あいつ」
「あぁ、レリウスのことだよ」
 そう教えてやると、知った名前にユリシアが顔を上げる。
 へらり、彼女が笑う。
「それなら、だいじょうぶですね」
「だろ」
 ――そうして二人が向かったのはレリウス=クローバー技術大佐の研究室だ。
 四葉のクローバーの彫刻が施されたドアノッカーでノックを三つ。声が返る前に重厚なその扉を引けばゆっくりと口を開け、部屋の内側が彼らを迎え入れる。
「……ハザマか」
「テルミだよ」
 帽子を軽く持ち上げ、スーツを着たテルミが逆立った髪を撫でつけながら言う。
 部屋の主はそんなことをお構いなしにいつだってテルミのことすらもハザマと呼ぶのだが、それに文句を言うことはなく、テルミは先の言葉以上には追及しない。
「して、今度はどうした」
 問うのはレリウスだ。
 蝋で固めたような仮面の表情はぴくりとも動かず、ただ代わりに首を横に傾けるのみであった。
「……そういえばコイツの術式適正、測ってなかったろ。だからテメェにお願いしに来たんだよ」
「ほう……お願い、か」
 お願い。頼み事。彼がそんなことを、レリウスにすることが珍しくて。
 レリウスは復唱し、興味深げに顎に手を添えた。無精ひげを指で撫でながら、
「いいだろう。丁度、術式適正を測る魔道書もあることだからな」
 やはりあったか、テルミは思う。
 レリウスが自身の、緑の革ソファから立ち上がると、棚へ向かう。一冊の本を手に取り、開いた。
「術式進路測定の本か」
「そちらの方が、色々と分かりやすいだろう?」
 開かれた本を見て、テルミが漏らす声にレリウスは返す。
 その方が、後々のことも考えやすいだろうという計らいだ。そして、
「――脱げ」
「へ?」
 開いた本は僅かに光を放ち、術式陣を浮かび上がらせる。
 そんな中、レリウスがユリシアに向かって言い放ったのはそんな一言だ。
「いや、術式適正高める服とか着せてねぇし……」
「決まりは決まりなんでな」
 顔を引き攣らせるテルミにレリウスがぴしゃりと告げる。
 だから、脱げ、と。
「へいへい、わかりましたよ」
 テルミが仕方なしとばかりに目を伏せ溜息を吐き、そう返すとユリシアを見る。
「っつーわけで……ちょっとばかし脱げ。靴と、服と、あと……その髪飾りも外せ」
 わざわざ第十五階層都市・学園都市トリフネまで行く手間が省けただけありがたいが、それでもそこと同じやり方でやるだなんて。
「はい、ですっ」
 テルミの言葉には逆らわないユリシアが慌てて返事を返し、靴を脱ぐ。
 うなじで留めたリボンをぎこちない動作で解けばはらり、捲れる前面。ゆっくりと下へ服を下ろし、持ったまま脚を上げて服から脚を抜く。
 最後に髪留めを外し、靴以外の一式を椅子へ預けると一糸纏わぬ姿で彼女は不安げに二人を見た。
 腕で膨らみかけの胸を隠すのは、前にハザマに裸を見せるのは恥ずかしいことだと聞いたからだ。
「――えと、それで」
「ここに触れろ。あとは勝手に分かるはずだからな」
 どうすれば。戸惑いげにユリシアが言いかけた言葉を遮り、レリウスが告げ、魔道書を机に置き指差す。
「わ、わかりました……です」
 そろりと手を伸ばし、彼女の白く細い指先が浮かび上がった術式陣に触れた途端――。
「んっ……」
 少女の体を光を放つ奇妙な文字列が包み込む。
 少女はそれを理解することこそできないが、代わりに――声が部屋に響いた。
『……ユリシア=オービニエ。今は常識に欠如したところがあるものの勉学・武道共に才能のあるバランサータイプ。全て平均値以上であるが、しかし驚かされるのは――』
「術式適正値、か。あの第十二素体をも上回る数値……」
 レリウスがその声に重ねるように漏らすと、ふっと文字は霧散した。光の粒子がふわりと残り、それもやがて一度煌めくと消える。
「――まぁ、そうといえばそうだよなぁ」
 テルミが数秒の間を置いた後、そう漏らす。
 それもそうだろう。彼女の出自を考えれば充分に頷ける結果なのだ。
 しかし、テルミの発言の意図を理解しかねたユリシアは――何故だろう、と首を傾けるだけであった。
「さて、終わったことだし服、着ろ。ユリシア」
 やがてテルミが少女に振り向きそう命じる。
 この会話を交わしていた間、彼女は前に教えられた『恥ずかしいこと』を忘れて着替えることもなく突っ立っていたのだ。
 それをテルミは見ずに予想し、そしてやはり的中した。だからちらりと一瞥した後すぐに目を逸らして。
「は、はいっ」
 失念していたというようにユリシアが慌てて椅子に置いてあった服を手に取る。
 手早く着替え、靴を履いたらトントン、と床につま先を数度叩き付ける。
「えと、かがみ、ってありますか」
「そっちだ」
 指差された方向、壁にかけられた鏡を見ながら、ちょっとだけ苦戦しつつも髪を途中まで編んで留めて、髪留めで飾って。
「おわりましたです」
「ん、じゃあ行くか」
 着替え終わったことを告げた彼女を見遣り、テルミは足早にここから出ようと提案をする。何かを言いたげなレリウスの顔があったが、また彼が変な気を起こしかねない内に――とそれを無視してユリシアの手を掴み歩き出した。
 そちらの方が早く彼女を連れていけるとの判断からの行動だったが、二回目の手を繋ぐ行為が今までの彼らしくないことにテルミは気付いていなかった。
 興味深げに、再度顎に手を持っていきながらレリウスは、去って行く二人の背中を見てほうと小さく声を漏らした。
「てるみさん」
「何だよ」
「レリウスたいささん、なにか言いたげ、でしたけれど」
 ユリシアがふと、廊下でテルミを呼ぶ。人が居ないのを確認して、テルミは返事を返す。今のテルミはスーツ姿のままだ。
 テルミが返事をしたのを受けて、ユリシアが語る台詞。
 それにテルミは間を少し置くと、
「――気にすんな」
 変に厄介ごとに首を突っ込んだり、下手にあの男の性格を語るよりはそれが一番手っ取り早いだろう、と。テルミは短くそう告げた。
「わかりました、です」
 未だテルミに手を引かれたまま、彼女はそう頷いた。



「じゅつしきで、くろきけものを、たおしたなら」
 つまり、攻撃型の術式というものが存在するのか。それは、人間にも及ぶものなのか。彼女は問うた。
 突然の、少女の口から出たとは思えないほどに『らしくない』問いに、ハザマは思わず間抜けた声を漏らした。
「はぁ? どうしたんですか、唐突に」
 彼女がそう問いかけたのには理由があった。先日の、レイチェルの件だ。
「えと、あの、まえの、かかわるなって言われたひと。かみなりを、出してたので」
 それも術式なんだろうか、テルミが危ないと避けたということは人にもそれは及ぶのだろうかと気になったのだ。
「あぁ、なるほど」
 そういう事か、とハザマは頷く。
 レイチェルのあれは魔法であったが、確かに素人から見れば魔法と術式の区別はつかないし、それに彼女は最近術式について勉強を始めたばかりだ。
 多少興味や疑問を持っても普通の反応と言える範囲だろう。
「……『アレ』は術式じゃありませんが、そうですね。攻撃型の術式は多いですよ。ほら、統制機構の衛士も術式を用いて戦ったりしますし」
 少女を振り返った体を戻し、白い楕円形の塊を入れ少量の塩を溶かした水を張った鍋に視線を遣って、彼は人差し指を立てながら語る。
 都市全体を一つの学園としたトリフネで習う基礎知識だ。
 いつの間にかそこに存在していたハザマは学校に行ったことなどないが、それでもインプットされていたその知識。
「そうなんですか。えと、あのひとのが、じゅつしきじゃないって……」
「あぁ、それは……」
 ふつふつ、と浮かび上がる小さな気泡。白い塊――卵に張りついたそれらを見つめ、箸で時々ころ、ころと転がしながらハザマは素直に説明するべきか悩む。
 そんなハザマを、ふと慣れてしまった違和感が襲う。
 見えた景色は変わらないし、音も聞こえる。
 しかし、動かそうとした手は動かないし、聞こえるその音はくぐもって、どこか遠い。まるで機械を通したかのように、その世界が向こうのもののような感覚がするのだ。
 実際、器という壁を通した精神側にハザマは放り込まれていた。
「んなことより、あと五分ほどしたら茶、淹れろ」
 間をあけて、テルミが言った内容はそれだった。
 逸らされる内容、一瞬だけ不満げな顔をしたが、ユリシアはそれが触れてはいけない内容なのだろうと察して頷いた。
 とうとう湯は沸騰し始めたのに、彼は箸を止めたままだ。これじゃあ黄身が偏ってしまうではないかと内側でハザマは愚痴を零すけれどテルミはソレを無視して。
「じゅつしき。わたしでも、つかえます、ですか」
「ユリシアは術式適正値が高ぇし、使えて当たり前だろ」
 そうだ。先日計測した結果出た彼女の術式適正値は、あの歴代最高記録を上回ったノエル=ヴァーミリオンを凌駕するものだった。
 彼女の出自を考えてやっと納得のできる異常な高さ。
 それはもう、どんな術式だって使いこなすことができるだろう。
「――ちょっと、ピンとこない、です」
 しかし彼女は自身の出自の事を覚えていないし、術式というものに知識の範囲では触れてからまだ日が浅い。首を捻り、何とも言えない表情で唸った。
「それもそうだろ。……ま、ちょっとずつ覚えてきゃいい」
 漏れたのは、気を遣うような優しい言葉であった。
 否、思い遣りだとか、そんなことを考えながら出したわけではない。実際に事実だし、思っていたのだけれど。
 声色が、少しだけ優しかったから。
 不思議そうに少女は顔を上げる。けれど、テルミは気付いた様子がない。少女はふふっと小さく笑って、
「そう、ですね。すこしずつ、色んなことをおぼえていきたい、です」
 口許に軽く握った手を添え、彼女は小首をこてり、そう語る。
 それから少しして、彼女はソファから立ち上がる。
「おちゃ、いれます、ですね」
「ん」
 買った踏み台に上って、棚からティーポットとカップ、それから鍋を取り出す。
 水を鍋に注いで、テルミの隣に立ち並ぶ。火にかけ、暫し待つ。
 ふつ、ふつ、浮かんでは消える丸い気泡、彼女はふと隣の鍋を見て、
「ころがさないと、きみ、かたよっちゃいますですよ」
「面倒だしいいだろ。食っちまえば同じだ」
 そう、ずっと、意味もなくテルミは水面を眺めたまま箸を動かさない。というか、鍋の上に箸を置いていた。
 せっかく最高のゆで玉子をハザマが作ろうとしていたのに、それを邪魔するなんて普段は有り得なかったのに。
 レイチェルの話を振られたからなのか、それとも彼の気まぐれか。
 一向に彼は戻る気配すらない。
「……はざまさん、かなしみます、です」
「たまにはこんなのでいいんだよ」
 沈黙。小さかったユリシアの鍋の気泡が、ぼこぼこと音を立てて大きくなる。泡一つ一つが硬貨一枚ほどの大きさになった頃合いで、彼女はポットとカップに湯を注ぎ、温める。丁度そこでタイマーが鳴って、テルミの方は鍋の湯を捨て、玉子を水につける。粗熱を取るためだ。
 暫しして湯を捨てると、棚から取った茶葉の缶を開けて、ティースプーンで一杯、二杯とポットに入れる。
 そこに九十度くらいに温めたお湯を一気に注ぎ込んで、蓋をする。二分ほどして、彼女はカップに、出来上がったお茶を注ぎ込む。
 ふわりと香る紅茶の匂いに、オレンジがかった紅色の液。
「いれおわりました、ですっ」
 いつの間にかテーブルの方でユリシアを見ていたテルミを振り返り、彼女は笑った。短く相槌を打ち、テルミが立ち上がる。食器棚から皿を取り出してゆで玉子を一つずつ、皿に乗せていく。
 ユリシアがトレーにカップを乗せて運ぶ後ろを歩き、テルミが机にその皿を置いた。
「……」
 机の角に軽く数度打ち付けて、殻を丁寧に剥く。一口齧り断面を見て、案の定黄身は偏っていた。
 食べてしまえば黄身も白身も一緒だから特に気にする必要はないと、もう一口で齧られた残りを全て口に入れてしまう。彼女の淹れた紅茶を一口啜り、一服。
 それを眺めながら少女も取っ手を摘みゆっくりカップを持ち上げ、紅い液体を口腔へ迎え入れ、舌で味わい、喉へ流し込み、窓の外を見た。
 広い青空は黒き獣が倒れた時に大量に放出された『魔素』というもので本来の色より少しくすんだ色になっているらしい、というのはハザマから聞いた知識だ。
 本当の空はもっと美しいのだ、と彼は言ったが、果たして彼らはいくつなのだろうと思い浮かぶ疑問。
「そういえば、てるみさんたちは、いくつなんですか」
 見たところ、そこまで歳を召しているようには見えない。あまり他人の事を知らない彼女にはそれが推定いくつくらいに見えるのが正しいかは分からないけれど。
「さて、いくつだろうな。いくつだと思うよ」
「うーん、分からない、です」
「んじゃあ、俺も知らね」
 はぐらかされる答え。
 記憶をなくしてでもいない限り、本人が忘れることなんてあまりないはずなのに。知らないだなんて。
 テルミはにんまりとした笑みを張り付けて、首を傾け眉根を寄せるユリシアを見た。
 意地悪ではない。否、多少はそれも交じっているが、それ以上にテルミは生き過ぎた。
 もう、自分でも思い出そうとしなければ思い出せないほどに。だからだ。
「……そう、ですか」
 テルミの表情に、これ以上聞いても教えてもらえないだろうとその幼い頭なりに結論付けて、彼女は頷く。
 それから紅茶のカップを置いて本棚へ向けて歩き――そういえば、勉強に夢中になって全ての本を読み切ってしまったことを思い出す。元々常識的なことしか書かれていない薄めの児童書だったりするので、当然といえば当然かもしれないが。
「てるみさん、てるみさん」
「なんだ、読まねぇのか」
「ぜんぶ、よみおわっちゃったみたいなので……」
 そんなユリシアの言葉に納得したように、成程とテルミが頷いた。
 ぱたぱたと駆け戻り椅子に座り直す少女。問う。今度、また買いに行ってもいいですか、だなんて。
 別に金銭的には問題ないほどの給与をハザマが貰っているし構わない。故にテルミはそれに対して首を縦に振るわけであるが。
 ここの所、思えば出かける度に何かに絡まれている気がすると、テルミは思う。しかしそれはテルミだけじゃなかったらしく、
「こんどは、あの、こわいひとたちに、からまれないと……いいですね」
 顎に手を添え、彼女がぽつりと漏らし紅茶を一口。
 少しだけ冷めて飲みやすい温度となった紅茶の水面に視線を落とす。
 自身が映り込み、揺れた。
「そうだな」
 テルミが一気に茶を飲み干して、ゆで玉子をぺろりと咥内へ、そしてつるりと喉へ流し込む。所謂丸呑みだ。
 たまにハザマがこうしているのを真似したのだが、広がった食道を流れるゆで玉子は塩も振っていなければ殆ど味もせず、やる必要性を感じなかったため次からは普通に齧って食べた。
 ユリシアが最後に残った紅茶を口へ流し込み、飲み干す。
「もし、からまれたら……そのときは」
 止まる彼女の言葉。どうしよう、だとかそんなことを言うのかと最初テルミは思いながら言葉の先を促す。
「てるみさんのじゃまにならないというか、手だすけ、できるくらいにはなりたいです」
 だって、会う度にテルミさんの方が攻撃されてるんですから。
 ぽかんとテルミは目を見開く。
 持っていたゆで玉子を取り落としそうになって、慌ててそれを持ち直した。
「このまえは、何もできなかったので。できても、あいだに、立つくらいしか」
 自身の横髪を指先で弄りながら、眉尻を垂れて彼女は話す。情けない、というような彼女には似合わぬ苦笑をして。
 テルミは別に彼女には、今はまだ邪魔にならなければいい、後々役割を教えて行けばいいと思っていた。彼女自らそういったことができるようになりたいと思うなんて到底考えつかなかった。
 だから彼女がこんな発言をしたことには凄く驚いたし、彼女が手助けをしたい、だなんて自身に向けてそう思っていたのは少し意外だった。
 自身がそう仕向けた上でこちらを好かせるよりも早く彼女が懐いたこと自体想定外だったのに。彼女は、何故自身をこんなに想っているのだろう。
「――ま、そうそうあんな事はねぇだろ」
 あの吸血鬼は様子を見に来ただけだと言ったし、テルミが子犬と呼び嘲るあの男だって追手から逃れたりなどせねばならないのだから。
 あの二回連続が珍しいだけだ、とテルミは結論付けて欠伸を漏らした。



「なんでまた唐突に呼んだんだよ」
「口を慎め、小僧」
 ピシャリ、と白く染まった長髪を束ねた老紳士がラグナを叱りつける。何故自身を連れて来たのか問うただけなのに理不尽に叱責する老紳士、ヴァルケンハインにひらりと手を掲げてレイチェルが制した。
「いいのよ、ヴァルケンハイン。それよりお茶を淹れてもらえるかしら」
「は、相分かりましたレイチェル様。ただいまお淹れいたします」
 ラグナはアルカード城――レイチェル達の居城に連れて来られていた。
 胸に手を当て恭しく腰を折り、ヴァルケンハインがレイチェルの言葉に応え去って行く。音を立てずに戸を閉めて彼が向かったのは厨房だ。
 座り心地の良すぎて落ち着かないソファに腰を下ろしたまま、ラグナは改めてレイチェルを見つめた。
「今度は城に招いて、何が目的なんだよ」
 気怠げな最初の話し方とは違い、真剣な目だった。
 レイチェルは一度、その左右で色の違う瞳を見つめると――溜息を吐いた。
「んだよ」
 思わず、むっとしてラグナが問う。
 勝手に連れて来たかと思えば問いに応えず溜息だなんて。
 ラグナが不機嫌そうに相手の言葉を待つと、レイチェルはやがて口を開いた。
「先日、あの子に会ったわ」
「んな」
 あの子、という言葉が指すものが何か、ラグナはすぐに分かった。
 テルミと行動を共にしていたあの少女のことだ。
 レイチェルは続ける。
「あの子はやはり、テルミと共に居たわ。そして、彼がどんな存在なのか知らなかった」
 目を伏せ、レイチェルは忌々しいその男の本性を思い出し――眉根を寄せた。
 きっと彼女は後悔する。この世界を壊そうとしている彼に着いていけば、蒼である彼女は――。
 コンコンコン、とノック音が三つ部屋に響き、すっと扉が開かれる。
「お茶をお持ちいたしました」
 足音も立てずに近寄るのは先ほど出て行ったヴァルケンハインだった。
 そっと、レイチェルとラグナの前にティーカップを置くと一礼して、ヴァルケンハインは一歩引く。
 レイチェルが礼を述べて左手をソーサーに伸ばし、胸元まで引き寄せると右手でカップを持ち上げた。
 一口。飲み込むのに合わせて白い喉が上下する。
「結局、アイツは何なんだよ」
「そうね。私もよくは知らないのよ、本当に。ただ、テルミが良くない目的で傍に置いているだろうことは事実だと思うわ」
 レイチェルらしからぬ、曖昧な答えにラグナは胡乱げな瞳を向ける。
 しかし、良くない目的で、というのには頷かざるを得ない。彼はそういう性格だと信じて疑わないからだ。
 先入観を持ちすぎるのは良くないが、しかしその先入観を持たせるに充分余りあるほどの悪行を彼はこなしてきたのだから。
「……あの子の正体は、私もよく分からないけれど予想はできるわ。きっと、それは合っているだろうけれど、でも今はまだ言うには早い」
 テルミ達が何を狙っているのかすらも、何もかも分からないこの確率事象の中だから。
 レイチェルは静かに紅茶を口に含み、飲み込んだ。
 ラグナは、それを聞いて何も言うことができなかった。自身には、理解の及ばない次元の話なのだろうと理解して。

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